【短歌】強力な…(かばん2013年10月号掲載 連作「きかいじかけのくまんばち」から一首)
- 2014/04/02
- 22:59
強力なつまさきからずしんとくる魔法だきみのゆびさきのこと 柳本々々
(かばん2013年10月号掲載 連作「きかいじかけのくまんばち」から一首)
【自(分で)解(いてみる)-杉山モナミさんと破調の森のオオカミ-】
かばん前号評で杉山モナミさんから「しばしば、うたの第三句字余りの破調のあたりには、オオカミ(野生/神的生命)が棲んでいて睨みをきかせます」とコメントを書いていただいたことがあって(杉山モナミ「『かばん』十月号ノート」『かばん2013年12月号』)、それからたびたび杉山モナミさんのそのことばを思い出しては破調の森に棲み込む「オオカミ(野生/神的生命)」についてじぶんなりに考えてみることがおおかった。
たとえばこの上の歌は、二句の七音に「ず」が入り込んできてしまっている。
五七五七七という定型にわけるならば、
強力な/つまさきからず/しんとくる/魔法だきみの/ゆびさきのこと
と、なる。
だから二句から三句目に句またがりがあるのだけれど、ここで「野生のオオカミ」がどこにひそんでいるのかをじぶんなりにずっとかんがえていた。
とりわけて「オオカミ」という杉山モナミさんがおっしゃった比喩が大事なのではないかと。
「ず」が二句目に浸食してきてしまっているわけだが、これはすこし飛躍したみかたをすると、句の切れ目を食い破り三句目が二句目をくらおうとしているようにみえないだろうか。
つまり、破調とはなにかしらの浸食作用のことであり、自壊作用、誤解される言い回しにもなるかもしれないが、みずからがみずからを傷つける〈自傷〉にちかいものがあるのではないだろうか。
なぜなら、わたしたちは定型という完璧なボディをしっているからである。しっていて、にもかかわらず、あえて、破調をえらぶのである。
だからそこには必ず「オオカミ」のような攻撃的かつ自傷的な、しかしなくてならない必然性があるはずだ。しかし必然性がありながらそれは「野生」のように意味の荒野をコントロールをふりきってかけずりまわるものでもあるはずだ(それを、もしかしたら定型に対して超越的な「神的生命」と呼んでもいいのかもしれない)。
たとえば上の歌であれば、「ず」が食い破って二句目を浸食することによって「つまさき」への身体的な〈傷〉と〈ショック〉をあらわしているというふうにいうことはできないだろうか。
「きみのゆびさき」がもたらした衝撃と、定型というボディを破ってくる瑕(きず)。
それはその歌自体が抱えていくであろう瑕だから、なめらかに定型におさまらない。おさまらないけれども、破調として、野生のオオカミ=神的生命としてかかえつつも、記憶していこうとすること。
破調=野生のオオカミとはそのようなことだったのではないかと杉山モナミさんのことばをじぶんなりに敷衍してかんがえてみたことを文章にしてみた。
杉山モナミさん、ありがとうございました。
(かばん2013年10月号掲載 連作「きかいじかけのくまんばち」から一首)
【自(分で)解(いてみる)-杉山モナミさんと破調の森のオオカミ-】
かばん前号評で杉山モナミさんから「しばしば、うたの第三句字余りの破調のあたりには、オオカミ(野生/神的生命)が棲んでいて睨みをきかせます」とコメントを書いていただいたことがあって(杉山モナミ「『かばん』十月号ノート」『かばん2013年12月号』)、それからたびたび杉山モナミさんのそのことばを思い出しては破調の森に棲み込む「オオカミ(野生/神的生命)」についてじぶんなりに考えてみることがおおかった。
たとえばこの上の歌は、二句の七音に「ず」が入り込んできてしまっている。
五七五七七という定型にわけるならば、
強力な/つまさきからず/しんとくる/魔法だきみの/ゆびさきのこと
と、なる。
だから二句から三句目に句またがりがあるのだけれど、ここで「野生のオオカミ」がどこにひそんでいるのかをじぶんなりにずっとかんがえていた。
とりわけて「オオカミ」という杉山モナミさんがおっしゃった比喩が大事なのではないかと。
「ず」が二句目に浸食してきてしまっているわけだが、これはすこし飛躍したみかたをすると、句の切れ目を食い破り三句目が二句目をくらおうとしているようにみえないだろうか。
つまり、破調とはなにかしらの浸食作用のことであり、自壊作用、誤解される言い回しにもなるかもしれないが、みずからがみずからを傷つける〈自傷〉にちかいものがあるのではないだろうか。
なぜなら、わたしたちは定型という完璧なボディをしっているからである。しっていて、にもかかわらず、あえて、破調をえらぶのである。
だからそこには必ず「オオカミ」のような攻撃的かつ自傷的な、しかしなくてならない必然性があるはずだ。しかし必然性がありながらそれは「野生」のように意味の荒野をコントロールをふりきってかけずりまわるものでもあるはずだ(それを、もしかしたら定型に対して超越的な「神的生命」と呼んでもいいのかもしれない)。
たとえば上の歌であれば、「ず」が食い破って二句目を浸食することによって「つまさき」への身体的な〈傷〉と〈ショック〉をあらわしているというふうにいうことはできないだろうか。
「きみのゆびさき」がもたらした衝撃と、定型というボディを破ってくる瑕(きず)。
それはその歌自体が抱えていくであろう瑕だから、なめらかに定型におさまらない。おさまらないけれども、破調として、野生のオオカミ=神的生命としてかかえつつも、記憶していこうとすること。
破調=野生のオオカミとはそのようなことだったのではないかと杉山モナミさんのことばをじぶんなりに敷衍してかんがえてみたことを文章にしてみた。
杉山モナミさん、ありがとうございました。
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