【感想】「最近は眼鏡にしてる」さうなんだ。最近ていつ? 最近会はない 千坂麻緒
- 2014/06/17
- 01:46
「最近は眼鏡にしてる」さうなんだ。最近ていつ? 最近会はない 千坂麻緒
【眼鏡の理/眼鏡の檻】
この短歌のおもしろいところって、結句が「」(かぎかっこ)の意味を書き換えちゃうところにあるとおもうんですよ。
いつも思うんですが、短歌も川柳も基本的にはループしながら、初句の意味を少しずつ書き換えていくとおもうんですね。
小説だってそうだとおもうんですが、もっと効果的に、てばやく、電光石火でループの意味生成をおこなうのが短詩型文学のおもしろさなんじゃないかなとおもっています。
で、千坂さんの短歌なんですが、結句が「最近会はない」です。ここで「『最近は眼鏡にしてる』」という直近で語りかけられているようなかぎかっこの意味が書き換えられてしまいます。これっておそらくは語り手がその場でとなりあってきいているんではなくて、なんらかのメディアを介して、そのひとにじかにふれられないようなかたちで、コンタクトの場を身体的に共有できないようなかたちできいているかぎかっこなんじゃないかとおもうんですね。
たとえばそのメディアとは、語り手があいてのブログのことばのなかに「最近は眼鏡にしてる」という記述をみてもいいき、メールの文面でもいいし、電話でもいい。ともかくこのかぎかっこは、初読のときとはちがってループしたときに、語り手自身を突き放すかぎかっことして機能しているようにおもうんです。
つまりもっといえばですね。この「」っていうのは、たとえていうと、ヱヴァンゲリヲンのATフィールドのように語り手がそのひとのなかに入っていけない〈内面〉の壁として、こころのかべとして、立ちはだかっているんじゃないかなとおもうんですね。
あいての最近はあくまで「最近」です。ちかごろ、といった意味です。でも、語り手は「最近ていつ?」と最近そのものを問うています。語り手にとってはおそらくあいてと共有している時間こそが、直近の時間となるべき、〈最近〉となるべき時間なんですね。だから、あいの時間を共有できていない語り手にとってまだ〈最近〉はやってきていない。だから、語り手は眼鏡をかけてないあいてがいる〈過去〉にいまだ取り残されたままです。その意味でも、「」(かぎかっこ)によって語り手は時間からも締め出しをくらっています。
となると、このかぎかっこっていうのは、もう発話そのものを示す記号というよりは、語り手を閉め出すもの、檻(おり)として機能しているんですよね。そういった檻としてのかぎかっこを発見してしまった。でも、語り手だけが発見したわけじゃない。短歌のループ構造に暮らす読み手も、この短歌をループしながら、檻としてのかぎかっこを〈発見〉するんです。
これはそういった意味で、読み直す過程でみえなかったものがみえてくるといった点において、れっきとした眼鏡短歌です。この短歌においては読み手であるわたしたちもまた最近眼鏡をかけたものたちなのです。たぶん。
ペンギンの話はやめて あたらしい眼鏡のことをもつと教へて 千坂麻緒
【眼鏡の理/眼鏡の檻】
この短歌のおもしろいところって、結句が「」(かぎかっこ)の意味を書き換えちゃうところにあるとおもうんですよ。
いつも思うんですが、短歌も川柳も基本的にはループしながら、初句の意味を少しずつ書き換えていくとおもうんですね。
小説だってそうだとおもうんですが、もっと効果的に、てばやく、電光石火でループの意味生成をおこなうのが短詩型文学のおもしろさなんじゃないかなとおもっています。
で、千坂さんの短歌なんですが、結句が「最近会はない」です。ここで「『最近は眼鏡にしてる』」という直近で語りかけられているようなかぎかっこの意味が書き換えられてしまいます。これっておそらくは語り手がその場でとなりあってきいているんではなくて、なんらかのメディアを介して、そのひとにじかにふれられないようなかたちで、コンタクトの場を身体的に共有できないようなかたちできいているかぎかっこなんじゃないかとおもうんですね。
たとえばそのメディアとは、語り手があいてのブログのことばのなかに「最近は眼鏡にしてる」という記述をみてもいいき、メールの文面でもいいし、電話でもいい。ともかくこのかぎかっこは、初読のときとはちがってループしたときに、語り手自身を突き放すかぎかっことして機能しているようにおもうんです。
つまりもっといえばですね。この「」っていうのは、たとえていうと、ヱヴァンゲリヲンのATフィールドのように語り手がそのひとのなかに入っていけない〈内面〉の壁として、こころのかべとして、立ちはだかっているんじゃないかなとおもうんですね。
あいての最近はあくまで「最近」です。ちかごろ、といった意味です。でも、語り手は「最近ていつ?」と最近そのものを問うています。語り手にとってはおそらくあいてと共有している時間こそが、直近の時間となるべき、〈最近〉となるべき時間なんですね。だから、あいの時間を共有できていない語り手にとってまだ〈最近〉はやってきていない。だから、語り手は眼鏡をかけてないあいてがいる〈過去〉にいまだ取り残されたままです。その意味でも、「」(かぎかっこ)によって語り手は時間からも締め出しをくらっています。
となると、このかぎかっこっていうのは、もう発話そのものを示す記号というよりは、語り手を閉め出すもの、檻(おり)として機能しているんですよね。そういった檻としてのかぎかっこを発見してしまった。でも、語り手だけが発見したわけじゃない。短歌のループ構造に暮らす読み手も、この短歌をループしながら、檻としてのかぎかっこを〈発見〉するんです。
これはそういった意味で、読み直す過程でみえなかったものがみえてくるといった点において、れっきとした眼鏡短歌です。この短歌においては読み手であるわたしたちもまた最近眼鏡をかけたものたちなのです。たぶん。
ペンギンの話はやめて あたらしい眼鏡のことをもつと教へて 千坂麻緒
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