【感想】いまのごりっという感触は 不思議の壁にぶちあたり、@ 加藤治郎
- 2015/09/28
- 12:30
いまのごりっという感触は 不思議の壁にぶちあたり、@ 加藤治郎
【唯物化するぶろんぶろん】
さっきの記事の天使の内臓の記事もそうだったんです、定型と唯物化っていうのは実はけっこう深いつながりがあるのかもしれないなと思います。
たとえば定型は必ずしも指をおって詠むものではないとはよくいわれますが(あくまで《音》律なので)、それでも指をおって短歌や川柳をつくることがありますよね。で、その〈指をおる〉行為って唯物論なんじゃないかなあ、とおもうわけです。
短歌は世界のありとあらゆることを歌にできるわけですが、たとえばこころのありようや恋愛などの抽象概念も〈指をおって〉定型におとしこんでいく。その過程で唯物化されていくのではないかとおもうんです。
恋愛ごとをひとはふつう抽象概念としてとらえていますよね。そこに指をおる余地なんてふつうはないわけです。どれぐらいあなたのこと愛しているかなあといって指をおったりはしないわけです(ふつうは)。そんなことをしたらひらてうちをされてしまう。
でも定型表現は、指をおる。愛の歌をうたおうとおもって、指をおりはじめる場合があるわけです。
唯物論っていうのはどういうことかというと、この社会の抽象概念が実は社会構造によって規定されているという考え方です。
たとえば自分が私室のような秋葉原という街が好きだなとか、丸の内のきらきらした高級感が好きだなとかそういう私的・個人的な価値観が、じつはじぶんがいま立っている社会構造のポジションから規定されたものかもしれない。それが唯物論的見方だとおもうんですが、定型表現もじつはそうした抽象概念が定型という唯物化する構造によって規定されているんだというひとつの唯物論なんじゃないかともおもうんです。
だから加藤さんの歌のように「@」が「ごりっという感触」になる。「@」が唯物化する。加藤さんの歌はそういう〈唯物化〉する歌が多いようにおもっていて、たとえば加藤さんの歌では擬音も唯物化してただよう不気味なおもしろさがあるようにおもうんです。つまりは、
ながきながき春の列車を行かしめてぶろんぶろんと鉄橋わらう 加藤治郎
【唯物化するぶろんぶろん】
さっきの記事の天使の内臓の記事もそうだったんです、定型と唯物化っていうのは実はけっこう深いつながりがあるのかもしれないなと思います。
たとえば定型は必ずしも指をおって詠むものではないとはよくいわれますが(あくまで《音》律なので)、それでも指をおって短歌や川柳をつくることがありますよね。で、その〈指をおる〉行為って唯物論なんじゃないかなあ、とおもうわけです。
短歌は世界のありとあらゆることを歌にできるわけですが、たとえばこころのありようや恋愛などの抽象概念も〈指をおって〉定型におとしこんでいく。その過程で唯物化されていくのではないかとおもうんです。
恋愛ごとをひとはふつう抽象概念としてとらえていますよね。そこに指をおる余地なんてふつうはないわけです。どれぐらいあなたのこと愛しているかなあといって指をおったりはしないわけです(ふつうは)。そんなことをしたらひらてうちをされてしまう。
でも定型表現は、指をおる。愛の歌をうたおうとおもって、指をおりはじめる場合があるわけです。
唯物論っていうのはどういうことかというと、この社会の抽象概念が実は社会構造によって規定されているという考え方です。
たとえば自分が私室のような秋葉原という街が好きだなとか、丸の内のきらきらした高級感が好きだなとかそういう私的・個人的な価値観が、じつはじぶんがいま立っている社会構造のポジションから規定されたものかもしれない。それが唯物論的見方だとおもうんですが、定型表現もじつはそうした抽象概念が定型という唯物化する構造によって規定されているんだというひとつの唯物論なんじゃないかともおもうんです。
だから加藤さんの歌のように「@」が「ごりっという感触」になる。「@」が唯物化する。加藤さんの歌はそういう〈唯物化〉する歌が多いようにおもっていて、たとえば加藤さんの歌では擬音も唯物化してただよう不気味なおもしろさがあるようにおもうんです。つまりは、
ながきながき春の列車を行かしめてぶろんぶろんと鉄橋わらう 加藤治郎
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