【こわい川柳 第八十五話】こわいこども-田久保亜蘭-
- 2015/09/28
- 13:00
すぐに抱けたから余所の子供である 田久保亜蘭
【主観は、よれる】
川柳のなかで〈子ども〉はどう語られているのかという話です。
川柳はよく〈うがち〉といわれて、ひとの気づかない批評性みたいなものが川柳性としていわれるのだけれど、わたしはこの〈うがち〉じゃなくて、川柳性には〈ねじれ〉があるんだといいかえてもいいんじゃないかとおもうんです。
ひとや世間が〈きづかなかった〉だけでなく、じぶんじしんさえも〈きづかなかった〉ことを、川柳をとおしてきがついてしまう。それが川柳の〈ねじれ〉です。
川柳はよれている、といってもいいかもしれない。縒れる。
たとえばこのあらんさんの句、「すぐに抱けたから余所の子供である」っていうのは〈気づき〉ですよね。これはひとに対してきづいてもいるし、世間や世界にたいしてもきづいているんだけれども、同時に「すぐに抱けた」じぶんじしんにも川柳をとおしてきづいているわけです。じぶんが「すぐに抱けた」のは「余所の子供」だったからと。
これはいうなればじぶんじしんに対する〈ねじれ〉です。抱くまでは(じぶんのことが)わからなかったんだけれども、抱いたら(じぶんのことが)わかった。そのねじれるまでの境界にこの句がある。
だからこの句では「子供」について語られているんだけれども、ある意味で、この語り手も川柳という認識から産み落とされた子供なんですね。川柳をとおしてそのことがわかったんだから。
だから川柳っていうのはそういうねじれを通して、ねじれの認識から〈認識のこども〉を産み落としていく文芸なんじゃないかとおもうんです。
ちなみに〈ねじれ〉なので、川柳でよくいわれてきた〈かるみ〉〈おかしみ〉も、〈おもみ〉〈かなしみ〉にねじれる場合があります。
川柳は、よれているんです。それがいちばんのこわさだともおもうんです。かるいのにおもくて、おかしいのにかなしいところが。
うちの子になるかと言って消えた人 竹井紫乙
- 関連記事
-
-
【こわい川柳 第十一話】 身の置き場なくて鴨居にぶらさがる 丸山進 2015/06/08
-
【こわい川柳 第八十一話】あたりいちめんびっしりと、毛-根岸川柳- 2015/09/07
-
【こわい川柳 第五十九話】中央分離帯に飾っておく真昼 赤松ますみ 2015/07/09
-
【こわい川柳 第六十五話・六十六話】らっきょうと明太子の怪-月波与生と井上一筒- 2015/07/20
-
【こわい川柳 第十七話】さくらさくら意識の中で咲くさくら 西郷かの女 2015/06/09
-
スポンサーサイト
- テーマ:読書感想文
- ジャンル:小説・文学
- カテゴリ:こわい川柳-川柳百物語-