【感想】鈴木晴香「降りそうで降らない」(短歌連作)
- 2015/09/28
- 13:30
春の闇乳房はすこし冷たくて柔らかいもの 指が驚く 鈴木晴香
綿棒を突っ込んでいる耳奥がしばらく私から遠ざかる 〃
空の青ではないポリバケツの中に持ち手の方が綺麗な花火 〃
【ものすごくうるさくて、ありえないほど遠い】
第五十八回短歌研究新人賞最終選考通過作(『短歌研究』2015年9月号)から鈴木晴香さんの「降りそうで降らない」です。
「降りそうで降らない」というタイトルが全体の基調を統括していると思うんですが、どんな基調かというと《あまりにも近すぎて遠い》っていうことだとおもうんです。「降りそうで降らない」もそういうことですよね、近くて・遠い。
たとえば「乳房」の歌ならば、じぶんの身体に驚いている。これは「耳奥」の歌もそうだとおもうんですが、〈近さ〉という距離によってみずからを〈遠さ〉として発見していく。そういう逆説によってつむいでいくのがこの鈴木さんの連作なんじゃないかとおもうんですよね。
で、ここで考えさせられるのは、連作ってなんだろうってことだとおもうんです。
連作っていうのはこんなふうにある基調音がズレながらも増幅していくことである。その基調音のなかであるひとつの世界がつくられていく。
でもそのときにただたんに加算的に増幅していくわけではないんだというのがこの鈴木さんの連作の意味性だとおもうんです。読み手は連作を読み進めることによって加算的にこの連作の世界にちかづいていく。ところがこの連作のベクトルは近づけば近づくほど遠くなるシステムを内包している。だから読み進めて世界をつくりあげていくことはこの連作を読み手として裏切ることになる。
そのとき問われるのは連作を読む際にひとはどの道を、どの方向性を、どのエネルギーを、どのベクトルを、どの熱量を、手にとればいいのか、ということではないかとおもうんです。決して直線的な、クロノロジックな、時間ではない、うずを巻くような、おのおのが混乱しながらもルールをつくっていくような、そういう読み手が積極的になる連作があってもいい。
意味が「降りそうで降らない」道をあるく連作。それがこの連作の意味性としての場所なんじゃないかとおもうんですよ。だから、ルールはひとつでなくていい。
どの町も同じでなくて良いルール後ろから乗るバスが橋行く 鈴木晴香
綿棒を突っ込んでいる耳奥がしばらく私から遠ざかる 〃
空の青ではないポリバケツの中に持ち手の方が綺麗な花火 〃
【ものすごくうるさくて、ありえないほど遠い】
第五十八回短歌研究新人賞最終選考通過作(『短歌研究』2015年9月号)から鈴木晴香さんの「降りそうで降らない」です。
「降りそうで降らない」というタイトルが全体の基調を統括していると思うんですが、どんな基調かというと《あまりにも近すぎて遠い》っていうことだとおもうんです。「降りそうで降らない」もそういうことですよね、近くて・遠い。
たとえば「乳房」の歌ならば、じぶんの身体に驚いている。これは「耳奥」の歌もそうだとおもうんですが、〈近さ〉という距離によってみずからを〈遠さ〉として発見していく。そういう逆説によってつむいでいくのがこの鈴木さんの連作なんじゃないかとおもうんですよね。
で、ここで考えさせられるのは、連作ってなんだろうってことだとおもうんです。
連作っていうのはこんなふうにある基調音がズレながらも増幅していくことである。その基調音のなかであるひとつの世界がつくられていく。
でもそのときにただたんに加算的に増幅していくわけではないんだというのがこの鈴木さんの連作の意味性だとおもうんです。読み手は連作を読み進めることによって加算的にこの連作の世界にちかづいていく。ところがこの連作のベクトルは近づけば近づくほど遠くなるシステムを内包している。だから読み進めて世界をつくりあげていくことはこの連作を読み手として裏切ることになる。
そのとき問われるのは連作を読む際にひとはどの道を、どの方向性を、どのエネルギーを、どのベクトルを、どの熱量を、手にとればいいのか、ということではないかとおもうんです。決して直線的な、クロノロジックな、時間ではない、うずを巻くような、おのおのが混乱しながらもルールをつくっていくような、そういう読み手が積極的になる連作があってもいい。
意味が「降りそうで降らない」道をあるく連作。それがこの連作の意味性としての場所なんじゃないかとおもうんですよ。だから、ルールはひとつでなくていい。
どの町も同じでなくて良いルール後ろから乗るバスが橋行く 鈴木晴香
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