【感想】いいことはたくさんあった ラブホからされてる電話が俺にはわかる 伊舎堂仁
- 2015/09/28
- 14:00
いいことはたくさんあった ラブホからされてる電話が俺にはわかる 伊舎堂仁
【長い途方もなく長い一字アキ】
伊舎堂さんの歌集『トントングラム』からの一首です。
いしゃどうさんの短歌における〈アキ〉って一般的なアキとは違う特有の質感があるようにおもうんですが、たとえばこの歌の一字あきっていうのはおなじ伊舎堂さんのこんな歌の一字あきとも共鳴しあっているようにおもうんです。
そういえば ばあちゃんに読んだじいちゃんの弔辞、ほとんど「キヨちゃん」だった 伊舎堂仁
この一字あきですね。で、わたしが感じたのはこの一字あきっていうのは〈途方もない長さ〉なんじゃないかとおもったんです。その〈途方もない長さ〉においてこの二首の一字あきはちょっと質感が(内容はぜんぜんちがうんだけれども)似ているんじゃないかって。
じゃあ問題はどうして一字あきがそのように〈組織〉されるのか、ってことだとおもうんですよ。
で、ですね。ひとつ思うのは、どちらの歌も〈回想〉という形式をとっていることです。
「いいことはたくさんあった」。これは回想ですね。これまでのことを圧縮したかたちで回想している。
「そういえば」。これも思いがけない回想ですよね。加速度的回想といってもいい。
で、回想というのはそんなふうに圧縮と加速の時間性をうむんですね。そうした圧縮と加速のなかで、空白の時間帯としての一字あきが生まれている。それが〈えいえん〉なんじゃないかとおもうんですよ。
もちろん回想のなかで「「キヨちゃん」だった」や「ラブホからされてる電話」という点としての時間はある。でもその点としての時間にたどりつくために周遊・回遊している時間がこの「 」という一字あきにはあるんじゃないかとおもうんです。
そうするとちょっと定型のなかの一字あきって呪術的ですごくこわいんじゃないかなともおもうんです。あんまりこういう時間制にひとがたちあうことってないんじゃないかなともおもうんですよ。ながい、とほうもなくながいじかんに。
どの これが長い途方もなく長い夢だとしたらどの一行を 伊舎堂仁
*ちなみに今週の『俳句新空間』の短詩時評では伊舎堂仁さんの短歌研究新人賞候補作「日本人語」を取り上げさせていただこうとおもっています。タイトルは、「伊舎堂仁のオールナイトニッポン(語)」(仮題)です。
【長い途方もなく長い一字アキ】
伊舎堂さんの歌集『トントングラム』からの一首です。
いしゃどうさんの短歌における〈アキ〉って一般的なアキとは違う特有の質感があるようにおもうんですが、たとえばこの歌の一字あきっていうのはおなじ伊舎堂さんのこんな歌の一字あきとも共鳴しあっているようにおもうんです。
そういえば ばあちゃんに読んだじいちゃんの弔辞、ほとんど「キヨちゃん」だった 伊舎堂仁
この一字あきですね。で、わたしが感じたのはこの一字あきっていうのは〈途方もない長さ〉なんじゃないかとおもったんです。その〈途方もない長さ〉においてこの二首の一字あきはちょっと質感が(内容はぜんぜんちがうんだけれども)似ているんじゃないかって。
じゃあ問題はどうして一字あきがそのように〈組織〉されるのか、ってことだとおもうんですよ。
で、ですね。ひとつ思うのは、どちらの歌も〈回想〉という形式をとっていることです。
「いいことはたくさんあった」。これは回想ですね。これまでのことを圧縮したかたちで回想している。
「そういえば」。これも思いがけない回想ですよね。加速度的回想といってもいい。
で、回想というのはそんなふうに圧縮と加速の時間性をうむんですね。そうした圧縮と加速のなかで、空白の時間帯としての一字あきが生まれている。それが〈えいえん〉なんじゃないかとおもうんですよ。
もちろん回想のなかで「「キヨちゃん」だった」や「ラブホからされてる電話」という点としての時間はある。でもその点としての時間にたどりつくために周遊・回遊している時間がこの「 」という一字あきにはあるんじゃないかとおもうんです。
そうするとちょっと定型のなかの一字あきって呪術的ですごくこわいんじゃないかなともおもうんです。あんまりこういう時間制にひとがたちあうことってないんじゃないかなともおもうんですよ。ながい、とほうもなくながいじかんに。
どの これが長い途方もなく長い夢だとしたらどの一行を 伊舎堂仁
*ちなみに今週の『俳句新空間』の短詩時評では伊舎堂仁さんの短歌研究新人賞候補作「日本人語」を取り上げさせていただこうとおもっています。タイトルは、「伊舎堂仁のオールナイトニッポン(語)」(仮題)です。
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