【お知らせ】はらだ有彩「10月のヤバい女の子/略奪とヤバい女の子」『アパートメント』レビュー
- 2015/10/01
- 21:20
デカローグ第八話「ある過去に関する物語」は、正義と不義についての映画である。ゾフィアは自分の身に覚えのないことで中傷を受けている。彼女の人生は後悔で彩られているのだ。それが彼女の過去のすべてだ。彼女にとって大切な自分の居場所でさえも少しずつ壊され、その上思い出を奪われてしまったのだ。40年後、エルジュビェダの来訪によって彼女は魂の救済を予感する。私は、ドストエフスキーの作品の中にも見いだせるこのつながり、つまり過ちから許しによって得られる魂の救済までの連鎖性は真実だと思っている。過ちは必要悪である。それは我々の上にもたらされる寛容さによって、我々を孤独の中から引きずり出してくれるのである。
キェシロフスキ
ディケンズぐらいまでだと、最終的にそれを打ち破るヒューマニズムが明確な形で出てくるんですが、ドストエフスキーの場合は、最初から修復不能なくらいに壊れてしまっている子どもが出てきます。それをどう大人が引き受ければいいのか、という問題は、答えが無いだけにものすごく現代性がある。同時に当時の裁判にそうした事件があふれていたとも言いますね。作家が自分でも答えを捜し求めてのたうちまわりながら書いているという未整理さが、力ですよね。
野崎歓『〈子ども〉の文学100選』
悪ってなんなんでしょうか。『天空の城ラピュタ』の極悪非道なムスカは本当に一度もラブレターを書いたことがなかったんでしょうか。一人きりの真夜中に一篇も詩を書いたことがなかったんでしょうか
ウェブマガジン『アパートメント』の毎月始めに更新されるはらだ有彩(はりー)さんの「日本のヤバい女の子」。
連載第五回目の今月のはりーさんの文章は「略奪とヤバい女の子」という信州の「紅葉伝説」の略奪と鬼になってしまった女の子をめぐるエッセイです。
今回はりーさんが書いていることは〈悪〉への想像力なのかなと思って、悪をわたしもはりーさんの文章レビューのコンセプトにおいてみました。
ひとはどうして悪〈である〉のか、ではなく、
ひとはどうして悪〈になる〉のか、という問題。
どうしてカラマーゾフ的な部分が、いつから、どのように発露し、それが組織され、構造化され、やがては引き返せないところまできてしまったことに気がついてしまうのか。
たとえば川柳にもこんなムスカ的な句があります。
壊したいとにかく買って来るおもちゃ 竹井紫乙
考えてみたいのは、この語り手の精神分析ではなく、どのようにことばの網の目をかいくぐって語り手が〈ここまで〉たどりついたのかという言説分析です。
いったいどんなことばが語り手に作用し、また失効してしまったのか。
ドストエフスキーの小説にも、宮崎駿アニメにも、壊れたにんげんはたくさん出てくるけれど、じゃあひとが壊れたとき、その壊れたぶぶんをどう考えればいいのか。
以下は、わたしが今回『アパートメント』のレビュー欄に書いたレビューです。はりーさんにならってムスカの生い立ちに想像をめぐらしてみよう、ムスカから悪をぎゃくに〈略奪〉してみようというコンセプトで書いてみました。
想像するということは、きっと、そのひとを思いがけないかたちで略奪〈しなおす〉ことなのです。それが、よかれあしかれ。
※ ※
「どうして、こんな男が生きているんだ!」ドミートリーが、うつろな調子で唸るようにつぶやいた。
(ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』)
*
宮崎駿のアニメ『天空の城 ラピュタ』にムスカといういわゆる敵役の悪党が出てきます。かれは主人公の女の子から天空の城ラピュタの位置を指し示す飛行石を〈略奪〉しようと躍起になっています。
ひとが死んでいくさまを「みろ! 人がゴミのようだ」と大喜びするような〈極悪人〉なのですが、宮崎駿はそのシーンの絵コンテに「テレビゲームに夢中の男」と記しています。
「テレビゲームに夢中の男」と記されてしまい、作者・宮崎駿から相対化されてしまったムスカをちょっと気の毒に思いましたが、果たしてはじめからムスカはこんな極悪人だったのでしょうか。
はりーさんの今回の文章を読んでわたしはこんなふうにおもったんです。
〈悪人〉は生まれたときから〈悪〉になるのではなく、〈悪人〉になるまでのプロセスがあるはずだと。
つまり、ムスカにとってリアルな死が「テレビゲーム」越しのような感覚になってしまうまでの、そして自分が相対化できなくなるくらいに悪に「夢中」になってしまうまでの、〈悪人〉になるまでのながいながい〈道程〉がそこにはあったはずです。
たぶんムスカにだって好きなひとがいたり、好きなおもちゃがあったり、好きなお菓子があったり、好きな花があったりした時代もあったはずなのです。
今回のはりーさんの文章は〈略奪〉と〈女の子〉をめぐるエッセイでした。略奪をくりかえすようになってしまった鬼女・紅葉。でもその略奪までのプロセスを描いているこの伝説にはりーさんは注意をうながします。どうしてなんだろう、と。なぜこんな幼かった女の子が鬼女になるまでのプロセスを描いたんだろうと。
《初めて紅葉伝説を読んだとき、私は(ずいぶん変わっているな)と思いました。鬼退治の話なのに鬼が主人公だなんて、勧善懲悪のストーリーにしては荒くれ者の主人公に感情移入しすぎではないか。
物語の中で、紅葉は鬼であり略奪者です。だけど私たちは紅葉の子供時代を知っているし、心の機微も知っている》
たとえばわたしははりーさんのこんなことばをムスカに問いかけてみたいともおもうのです。
《私たちは基本的にはいい子だし、日常生活や仕事において、まあ、たぶん、誠実です。でもあの時の決断は、ほんとうに後ろぐらくなかったろうか。自分の理念に真摯であることは、ほんとうに間違いでなかったろうか》
はりーさんがここで〈悪〉に対して問いかけているのは、ちょっと《いまの自分につまずいてみたら》ということなんではないかとおもいます。ムスカ、ちょっとつまずいてみたら、と。
悪とは、宮崎が記したように「テレビゲームに夢中」になるような自分を絶対化することです。絶対の自己同一化がみずからに悪をもたらします。
でも、つまずきは、その絶対を、そらします。
つまずくと、じぶんのシステムはほころびます。そのほころびから、他者がとびらをあけてやってきます。こんなシステムもあるんだけれどどうだろう、あなたのしあわせってこっちにもあるんじゃないの、と。
悪、ってなんなんでしょうか。
ムスカはほんとうにいちどもラブレターを書いたことがなかったんでしょうか。ひとりきりの真夜中に一篇も詩を書いたことがなかったんでしょうか。
点としての《いま・ここ》のじぶんだけじゃなくて、《いま(までの)・ここ(までの)》じぶんに気がつくために、あえてけつまずいてみること。そしてじぶんのちからで立ち上がらないで、あなたが手をさしのべてくれるまであえて積極的につっぷしつづけること。そうやって、ほころびながらもうひとつの手を待ってみること。
手は、いずれ、やってくるのです。過去から、未来から、時のどしゃぶりのなかから。
そんなことをわたしははりーさんの今回のエッセイから教えてもらったようにおもいます。
最後に、まだ幼く略奪も知らなかった頃の呉葉(くれは)とそしてやはり幼かった頃のおそらくラピュタさえも知らなかったムスカにこんな一句を送りたいとおもいます。
語りそこなつたひとつの手を握る 小津夜景
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