【感想】お別れに光の缶詰を開ける 松岡瑞枝
- 2014/06/17
- 02:15
お別れに光の缶詰を開ける 松岡瑞枝
【さようなら、そして定型を大切に】
ブログ記事100本目は、わたしももしお別れがくるときは光の缶詰をあけたいなということでこのふしめとなるような句の感想文をかいてみたいとおもいます。
ふしめふしめでこの句のことをよくかんがえているんですが、とりあえず基本に立ち返って定型にわけてみます。
おわかれに/ひかりのかんづ/めをあける
こうしてみるとよくわかるんですが、定型によって裂かれているのがこの句では「缶詰」なんですよね。
うがった見方かもしれないんですが、この句というのは、川柳そのものであることによって光の缶詰があけられ、ひかりがいままさにあふれだしている、そういう句なんじゃないかとおもうのです。
しかしだいじなことは、定型というのは、視覚ではなく、聴覚を特権化するものだということです。
ですから、この句というのは、いくらみていても、光はあふれだしてこない。そのままでは光の缶詰はあけられない。定型という缶切りによってはじめてあけられるのが光の缶詰なのではないかとおもうんです。つまり、くちにだしてとなえなければならない。きかなければならない。それが、光の缶詰のあけかたです。
つまり、この句の語り手にとって光とは眼にみえるものではないんです。なによりも音律として聴くものなんです。ひかりは目に見えるものだけではありません。聴くひかりというのも、たぶん、あるんですね。
ここでこの句にたちかえってみるならば、これは、「お別れ」のときなんです。さようならのときにはじめてあけられる缶詰であり、ひかりなんですね。
だから語り手にとって定型という缶切りを使うことは、切実なことだと思うんですね。定型とは実はなにかを音律にあてこむことによって、切ることによって、喪失とひきかえにうたうものである、というのが語り手にとっての定型への認識なのではないでしょうか。
定型とは、なによりも、記憶とかかわりがふかいはずです。定型化され、なんかいも唱えられるようなかたちで、くちびるに宿るのは、それが身体的に記憶されていくからです。しかし、記憶されねばならないことばができるときは、いつでも記憶する以前の身体に対して「お別れ」のときでもあるはずです。ニーチェが積極的に〈忘却〉の価値を説いていたように、わたしたちは〈記憶〉することで、ぎゃくに不可逆な身体を負債としてひきうけていかなければならない場合がある。以前の身体とはお別れをいいながら。
わたしはこの句にはそうした定型への切実さと定型をうけいれてしまうところにあるさようならがあるようなきがします。
もちろん、お別れとは、ふだんのわたしたちのお別れをおもいなおしてみてもわかるように、定型化できない、言語化できないような切実さの場所としてあるはずです。でもだからこそ、缶切りとしての定型で、無骨にも光の缶詰をあけながら、お別れを記憶して、不可逆としてひきうけて生きていかなければならない。
語り手のそうした〈強さのペシミズム〉(ニーチェ)もわたしはどうじにこの句から感じます。
ありがとうございました。
美しき夜たれ猫の鈴外す 松岡瑞枝
【さようなら、そして定型を大切に】
ブログ記事100本目は、わたしももしお別れがくるときは光の缶詰をあけたいなということでこのふしめとなるような句の感想文をかいてみたいとおもいます。
ふしめふしめでこの句のことをよくかんがえているんですが、とりあえず基本に立ち返って定型にわけてみます。
おわかれに/ひかりのかんづ/めをあける
こうしてみるとよくわかるんですが、定型によって裂かれているのがこの句では「缶詰」なんですよね。
うがった見方かもしれないんですが、この句というのは、川柳そのものであることによって光の缶詰があけられ、ひかりがいままさにあふれだしている、そういう句なんじゃないかとおもうのです。
しかしだいじなことは、定型というのは、視覚ではなく、聴覚を特権化するものだということです。
ですから、この句というのは、いくらみていても、光はあふれだしてこない。そのままでは光の缶詰はあけられない。定型という缶切りによってはじめてあけられるのが光の缶詰なのではないかとおもうんです。つまり、くちにだしてとなえなければならない。きかなければならない。それが、光の缶詰のあけかたです。
つまり、この句の語り手にとって光とは眼にみえるものではないんです。なによりも音律として聴くものなんです。ひかりは目に見えるものだけではありません。聴くひかりというのも、たぶん、あるんですね。
ここでこの句にたちかえってみるならば、これは、「お別れ」のときなんです。さようならのときにはじめてあけられる缶詰であり、ひかりなんですね。
だから語り手にとって定型という缶切りを使うことは、切実なことだと思うんですね。定型とは実はなにかを音律にあてこむことによって、切ることによって、喪失とひきかえにうたうものである、というのが語り手にとっての定型への認識なのではないでしょうか。
定型とは、なによりも、記憶とかかわりがふかいはずです。定型化され、なんかいも唱えられるようなかたちで、くちびるに宿るのは、それが身体的に記憶されていくからです。しかし、記憶されねばならないことばができるときは、いつでも記憶する以前の身体に対して「お別れ」のときでもあるはずです。ニーチェが積極的に〈忘却〉の価値を説いていたように、わたしたちは〈記憶〉することで、ぎゃくに不可逆な身体を負債としてひきうけていかなければならない場合がある。以前の身体とはお別れをいいながら。
わたしはこの句にはそうした定型への切実さと定型をうけいれてしまうところにあるさようならがあるようなきがします。
もちろん、お別れとは、ふだんのわたしたちのお別れをおもいなおしてみてもわかるように、定型化できない、言語化できないような切実さの場所としてあるはずです。でもだからこそ、缶切りとしての定型で、無骨にも光の缶詰をあけながら、お別れを記憶して、不可逆としてひきうけて生きていかなければならない。
語り手のそうした〈強さのペシミズム〉(ニーチェ)もわたしはどうじにこの句から感じます。
ありがとうございました。
美しき夜たれ猫の鈴外す 松岡瑞枝
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