【感想】目の前に水晶玉がある逢える 時実新子
- 2015/10/01
- 23:15
目の前に水晶玉がある逢える 時実新子
【逢える、のか】
時実さんはじぶんの心情をありったけ吐いているようにも一見みえがちなんだけれども、そうではなくて、その〈吐く〉過程に〈きちんと〉屈折があるようにおもうんですよね。
で、その屈折が入ることによって時実さんの句は〈構造〉となっているんじゃないかとおもうんです。
なかはらさんのオズの国の句の話をしてからふいに思い出したこの水晶玉の句なんですが、なかはらさんの句ではあきらかに「病院の窓」がノイズになっていたわけです。そういうノイズが入ることによって構造が生まれていた。
で、時実さんのこの句も「水晶玉」が入ることによってノイズが生まれている。たとえばこの句の結語の「逢える」を内面の吐露ととらえてもいい。ここを心情ありったけ部分とみてみてもいいと思うんですが、ところがそういう心情を「水晶玉」が相対化していますよね。
「水晶玉」ですから、「逢える」って語り手がいっているけれど、読み手はこうおもうわけです。ほんとに逢えるの?と。
この句が句自身に対して「水晶玉」という屈折から批評的になっているとおもうんですよね。逢えないんじゃないの、と。
しかも逢えても水晶玉なんですね。それはどうなのか。逢えたことになるのかどうか。そういう問題提起を読み手に起こします。「逢える」が「逢える」にならないわけです。なかはらさんの句の「オズの国」が「オズの国」にならなかった/なれなかったように。
こういうふうに、川柳っていうのはみずからがみずからに対して批評的かかわり合いをしている場合があるとおもうんですね。で、そういう批評的かかわりあいのことを〈構造〉と呼ぶんじゃないかなとおもうんです。
だから時実新子さんから句を読む、というよりも、構造から時実新子さんを読み直してみるということもときどきはあってもいいんじゃないかなとおもうんです。
「水晶玉」がひかりの屈折によってさまざまなイメージをうみだすように、なんどもなんどもひかりのあてかたによってわたしたちはおなじ句にちがったかたちで再会できるわけですから。
逢える、わけです。
走馬燈いのちを賭けてまはりけり 久保田万太郎
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