【感想】本論と呼ぶけどそれは薊だよ 清水かおり
- 2015/10/02
- 20:26
本論と呼ぶけどそれは薊だよ 清水かおり
【認知から考える現代川柳】
『触光』44号の「前号「触光集」鑑賞」にて清水かおりさんから次のていねいな句評をいただきました。ありがとうございました!
おとうとの三割はこうそくどうろ 柳本々々
そして残りの七割は何と思う?と尋ねてみたい。人が持つ性質を云っていると読むのは安直だろうか。「おとうと」には若い男性を喩とした響きがあり、包容力のある視線が窺える。三割の直情に突き動かされる人間を愛しいと思える句。 清水かおり
拝読して思い出したのが清水さんのこの句でした。
本論と呼ぶけどそれは薊だよ 清水かおり
ずっと印象に残っていたのですが、川柳においてはこうした通常の認識とは異なる〈認識の錯誤〉がけっこう起こっているのではないかとおもうのです。『とりかへばや物語』というひとが取り交わってしまう物語がありましたが、いうなれば〈認識とりかへばや物語〉のようなものが起こっている。
しかもそれはカテゴリーを無視して、超域的に行われている。
たとえば、「本論」と「薊」はおなじ類ではないし、おなじカテゴリーでもない。ひとつは抽象概念で、もうひとつは花という具体物です。ところがこれを〈まちがえて〉同じだとおもってしまう。
そういうふしぎな〈認知〉のありようが現代川柳にはみられる。
なんでだろう。
ただいえることは川柳の認識の枠組みが近代的な博物学的な認識の枠組みの前を遡行しようとしているということです。たとえば鳥山石燕が博物的に名前をあたえ図示し整理した『百鬼夜行絵巻』のような〈おとなしい妖怪〉になるまえの〈どろどろした未境界の妖怪〉の場所に。
でも、やはり、なんでだろう。
なんでだろうと思いながら『触光』からふしぎな認知の句を抜き出して終わりにしようとおもいます。
ピクルスにしようか波にかえそうか 丸山あずさ
切り替わるレールの先に河馬の口 鈴木修子
面舵を龍角散で鎮めてる 三好光明
粉山椒ふるとこの世は住みやすい 悠とし子
えんぴつの乱と親しくしてる夜 高田寄生木
金太郎飴から消えた四捨五入 鳴海賢治
図鑑買うつもりの両手ふさがれる 木村花江
むかしむかしのび太とドラえもんでした 野沢省悟
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