【感想】黙々と生きるパズルが解けるまで 松山芳生
- 2015/10/03
- 01:00
黙々と生きるパズルが解けるまで 松山芳生
まなざしはゼリーぢーつとしてゐると 小津夜景
【この文章は最後にまさかりが唐突に出てきます。そして筆者はまさかりを定型になぞらえつつ、まさかりをかつぎつつ、おかっぱになりつつ、この文章を終わらせようと最終的に決意します】
ときどき短詩型で非言語的志向性をもった句にであうんですね。
たとえばうえの松山さんと夜景さんの二句で共通しているのは、「黙々と」と「ぢーつと」ですよね。
それってどういうことなのかといえば、お静かに生きましょう、お静かにゼリーになるまでみつめましょう、ってことですよね。
ともかく静かに、ってことなのです。語るなと。
まだるっこしい言い方をしないで端的にいえば、ふたつの句はこんなふうにわたしたちにうったえかけているんだとおもうんですね。つまり、
《黙れ》と。
もういいから黙れ。語るな。黙々とゼリーでいろ、と。
こういう、言葉でもって言葉じゃない方向性をもつ句をわたしはとても不思議に思うし、いつもちょっとわくわくします。
で、ちょっとここから(もう真夜中なので)こんなふうに(暴力的に)おもってみたいとおもうのです(まさかりもったようなかんじで)。
定型詩ってじつは言葉ですらないんじゃないかと。
定型詩っていうのは、定型の詩なのだから、ひっきょう、言葉が主体におかれなくても、言葉が担保されていなくても、それがたとえゼリーのようなものだっていいんじゃないか、と。
つまり、もういちどいうなら、《黙れ》っていうのが基本的には定型詩であって、でも黙ることはがまんできないから定型にそって言葉は発話するんだけれども、でも基本的には定型は《黙れ》という威光にたえずかしずこうとすることなんじゃないかと。
だからこの二句はその意味で《黙れ》をそのまま逐語訳的に体現しているところが定型詩っぽいなあとおもうんですね。黙っていてもいいんだ、っていうのが定型詩だとおもうし、黙れよ、とたえずよびかけてくるのが定型詩のようなきもする。
定型詩を語るということ、定型詩を読むということは、語ること、読むことなのではなくて、まさかりをふるうことなのではないか。どうして? 沈黙の技術だから。
読むだろう まさかりで窓を開いて 小津夜景
- 関連記事
スポンサーサイト
- テーマ:読書感想文
- ジャンル:小説・文学
- カテゴリ:勇気が出る川柳