【感想】ひとり静『句集 海の鳥・空の魚Ⅱ』-ジャンプするたびにきらきらとする-
- 2014/06/17
- 14:24
ジャンプしてちょっと揺らしてみる真昼 ひとり静
【ジャンプする語り手の世界の愛し方】
ひとり静さんの第2句集なんですが、第1句集との差異をあえてあげてみるならば、わたしは第2句集になって語り手が世界に働きかけることが多くなってきている、というところにあるんじゃないかと思うんですね。
つまり、世界そのものの〈ねじれ〉の力学を発見していたのが第一句集であるならば、語り手自身の世界における存在の力学のありかたが変わってきているのがこの第二句集なんじゃないかとおもうんです。もっとシンプルないいかたをすれば、〈世界の躍動〉から〈語り手の躍動〉へ。
たとえばうえに引いた句なんですが、語り手がジャンプして揺らすのは「真昼」です。「真昼」というのは世界にとって根幹的な時間帯であり、「ちょっと」という修辞がつけられるような調整できるような対象ではないはずです。ところが逆にいえば「ちょっと」という副詞を容易に語り手がつかえてしまったように語り手にとっては「真昼」は揺らすことのできる、働きかけることのできる対象です。語り手が、動き出せば、そのぶん世界は変わるし、調整することだってできるのです。しかしその逆をいくような句もあります。
滝ひとつ上手く説得できません
この場合、語り手にとって滝は鑑賞するものではなく、話しかけるべきものです。説くものです。しかし語り手は滝に対する説得に挫折しています。しかし大事なことは、語り手が滝を説得しようとしたことであり、その行為としての働きかけによってやはり世界の属性が変わっていくことです。滝はもはやどうどうとしぶきをあげるただ瞠目すべきものではありません。そのどうどうにみずからことばをさしいれ、対話するものなのです。
そのような語り手が世界に働きかける句をすこし恣意的に抜き出してみます。
スイッチオフみんなおぼろになりました
背景がないので角度変えてみる
えいやっと裏返したい昼の月
椅子ひとつ置いてわたしの空になる
降ってくるものにはふっとさしだす手
蛇口から銀河出てくるまで洗う
語り手が世界に働きかけることによって、しかもたいていは「背景」「昼の月」「空」「銀河」といったような不動の根幹のものに働きかけることによって、それらとの関わりのなかで語り手・世界ともに変わっていくこと。それがこの句集のひとつのモチーフとして流れているのではないかと思いました。あえていうならば、「海の鳥」や「空の魚」であるということは「の」という接続する格助詞が「空」と「魚」といった異質なものを容易に結びつけてしまうように、その「の」をさがすこと、語り手が世界と出会うための「の」をさがすということにこそあるのかもしれません。
そしてそのように世界に働きかけた語り手だったからこそ、さいきんのひとり静さんのこのような句にはビビッドな意味のきらめきがあるように思います。語り手がたどりついたのは、こんどは不動の世界に働きかけるのではなく、不動の「わたし」から世界が輝くことを感じる意味のきらめきです。すなわち、
きらきらとなんにもしない時間です ひとり静
【ジャンプする語り手の世界の愛し方】
ひとり静さんの第2句集なんですが、第1句集との差異をあえてあげてみるならば、わたしは第2句集になって語り手が世界に働きかけることが多くなってきている、というところにあるんじゃないかと思うんですね。
つまり、世界そのものの〈ねじれ〉の力学を発見していたのが第一句集であるならば、語り手自身の世界における存在の力学のありかたが変わってきているのがこの第二句集なんじゃないかとおもうんです。もっとシンプルないいかたをすれば、〈世界の躍動〉から〈語り手の躍動〉へ。
たとえばうえに引いた句なんですが、語り手がジャンプして揺らすのは「真昼」です。「真昼」というのは世界にとって根幹的な時間帯であり、「ちょっと」という修辞がつけられるような調整できるような対象ではないはずです。ところが逆にいえば「ちょっと」という副詞を容易に語り手がつかえてしまったように語り手にとっては「真昼」は揺らすことのできる、働きかけることのできる対象です。語り手が、動き出せば、そのぶん世界は変わるし、調整することだってできるのです。しかしその逆をいくような句もあります。
滝ひとつ上手く説得できません
この場合、語り手にとって滝は鑑賞するものではなく、話しかけるべきものです。説くものです。しかし語り手は滝に対する説得に挫折しています。しかし大事なことは、語り手が滝を説得しようとしたことであり、その行為としての働きかけによってやはり世界の属性が変わっていくことです。滝はもはやどうどうとしぶきをあげるただ瞠目すべきものではありません。そのどうどうにみずからことばをさしいれ、対話するものなのです。
そのような語り手が世界に働きかける句をすこし恣意的に抜き出してみます。
スイッチオフみんなおぼろになりました
背景がないので角度変えてみる
えいやっと裏返したい昼の月
椅子ひとつ置いてわたしの空になる
降ってくるものにはふっとさしだす手
蛇口から銀河出てくるまで洗う
語り手が世界に働きかけることによって、しかもたいていは「背景」「昼の月」「空」「銀河」といったような不動の根幹のものに働きかけることによって、それらとの関わりのなかで語り手・世界ともに変わっていくこと。それがこの句集のひとつのモチーフとして流れているのではないかと思いました。あえていうならば、「海の鳥」や「空の魚」であるということは「の」という接続する格助詞が「空」と「魚」といった異質なものを容易に結びつけてしまうように、その「の」をさがすこと、語り手が世界と出会うための「の」をさがすということにこそあるのかもしれません。
そしてそのように世界に働きかけた語り手だったからこそ、さいきんのひとり静さんのこのような句にはビビッドな意味のきらめきがあるように思います。語り手がたどりついたのは、こんどは不動の世界に働きかけるのではなく、不動の「わたし」から世界が輝くことを感じる意味のきらめきです。すなわち、
きらきらとなんにもしない時間です ひとり静
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