【感想】原液のまま聖天さん漬ける くんじろう
- 2015/10/06
- 01:30
原液のまま聖天さん漬ける くんじろう
聞き取りし “Faire is foule, and foule is faire(良いは悪いで悪いは良い)” 魔女早口で他はわからず 永田紅
【すこやかな不健全】
川柳に出会う前から、〈すこやかな不健全〉についてよく考えていたんですよ。
たとえばですね、人目を忍んで犯罪をおかしにいく少年がいたとします。その場合、犯罪をおかすために早朝に起きて動いていたりする。そのとき少年はこう思うんじゃないか、これからとっても不健全なことをしにいくのにこんなに自分は早起きでなんてすこやかなんだと。
たとえばひとめをしのんで好きなひとに早朝から会いに行く。まだ射し込みかけの陽のひかりをてのひらにのせながらおもう。なんてじぶんは不健全ですこやかなんだと。
そういうのってたぶん松尾スズキさんが積極的に主題化していたとおもうんですが、でもそれは逆説の極みの話なのだから、たぶんドストエフスキーも積極的に主題にしている話だとおもんですよ(ドストエフスキーを逆説のキングといったのはたしかボルヘスだったと思う)。ちょっと『マクベス』の魔女の有名なセリフ「きれいはきたない、きたないはきれい」にも似てる。
そういうすこやかな不健全ってどういうわけかあるとおもうんですよ。
だけどそれってわたしがなんだか饒舌になかば遠回りにこんなふうに語ってしまっているようにこの世の中で《そのまんま》語るのってわりと難しいんじゃないかとおもうんですよ。松尾スズキさんの舞台がほとんど放送禁止なように(間接的にあらすじを話すことすらテレビメディアではほとんどできない)。
でもそれが川柳だとぎりぎりできる。たとえばくんじろうさんの句のように「原液のまま聖天さん漬ける」こともできる。
それがずっとふしぎで、犯罪のために早起きした少年と現代川柳っていうのはちょっと似ているんじゃないの、とおもうんです。それはドストエフスキーを極端に圧縮すると現代川柳になるんじゃないの、ともすこし似ている。もしかしたら、ひいき目にし過ぎなのかもしれないけれど、でも定型ってふしぎな装置としての作用があるとおもうんですよ。
川柳カード大会の句に小池さんの
ますます白くなってゆく暴力装置 小池正博
という句があって、ちょっとこれ川柳そのものにも近いなっておもったんですよ。ホワイトな暴力装置というか、暴力装置ではあるんだけれど健全というか、もしかしたら川柳というよりこの装置は定型かもしれないなとも思うんだけれども。
川柳って審級とか神様みたいな格がないとおもうんですね(季語のような、七七のような)。だから《やさぐれてしまう》というか《不良的》に《野蛮》に《フリーダム》になっていく。でも、ずっと、定型がある。
その定型がどう川柳に作用しているのかっていうのがずっとふしぎで。それってね、ちょっと俗な話だけれども、ダイエットにも似ているとおもうんですね。このカロリー内ならなにを食べてもいいみたいな。カロリーが定型で、なにを食べてもいいが中味ですね。なにを食べてもいいんだけれど、食べ過ぎたりやりすぎたりすると、どうなのっておもわれる。じぶんでもどうなんだろっておもう。食っていうのは意味と同じように共同意識がありますから。で、定型をはみだしてもいいんだけれど、そういう気のゆるみによって、どんどん太っていくとかね。
そういうすこやかな不健全さというあわいに川柳があるんじゃないかというのがずっとじぶんの関心としてあるんです。こういう自意識のありかたってなんなのだろうと。ちょっとふだんの暮らしとはちがう自意識のチャンネル設定ですよね。リミッターを解除してあるというか。たとえば、こんなチャンネルのちがう「可愛いらし」もある。
夕方のぬかるみとても可愛いらし くんじろう
聞き取りし “Faire is foule, and foule is faire(良いは悪いで悪いは良い)” 魔女早口で他はわからず 永田紅
【すこやかな不健全】
川柳に出会う前から、〈すこやかな不健全〉についてよく考えていたんですよ。
たとえばですね、人目を忍んで犯罪をおかしにいく少年がいたとします。その場合、犯罪をおかすために早朝に起きて動いていたりする。そのとき少年はこう思うんじゃないか、これからとっても不健全なことをしにいくのにこんなに自分は早起きでなんてすこやかなんだと。
たとえばひとめをしのんで好きなひとに早朝から会いに行く。まだ射し込みかけの陽のひかりをてのひらにのせながらおもう。なんてじぶんは不健全ですこやかなんだと。
そういうのってたぶん松尾スズキさんが積極的に主題化していたとおもうんですが、でもそれは逆説の極みの話なのだから、たぶんドストエフスキーも積極的に主題にしている話だとおもんですよ(ドストエフスキーを逆説のキングといったのはたしかボルヘスだったと思う)。ちょっと『マクベス』の魔女の有名なセリフ「きれいはきたない、きたないはきれい」にも似てる。
そういうすこやかな不健全ってどういうわけかあるとおもうんですよ。
だけどそれってわたしがなんだか饒舌になかば遠回りにこんなふうに語ってしまっているようにこの世の中で《そのまんま》語るのってわりと難しいんじゃないかとおもうんですよ。松尾スズキさんの舞台がほとんど放送禁止なように(間接的にあらすじを話すことすらテレビメディアではほとんどできない)。
でもそれが川柳だとぎりぎりできる。たとえばくんじろうさんの句のように「原液のまま聖天さん漬ける」こともできる。
それがずっとふしぎで、犯罪のために早起きした少年と現代川柳っていうのはちょっと似ているんじゃないの、とおもうんです。それはドストエフスキーを極端に圧縮すると現代川柳になるんじゃないの、ともすこし似ている。もしかしたら、ひいき目にし過ぎなのかもしれないけれど、でも定型ってふしぎな装置としての作用があるとおもうんですよ。
川柳カード大会の句に小池さんの
ますます白くなってゆく暴力装置 小池正博
という句があって、ちょっとこれ川柳そのものにも近いなっておもったんですよ。ホワイトな暴力装置というか、暴力装置ではあるんだけれど健全というか、もしかしたら川柳というよりこの装置は定型かもしれないなとも思うんだけれども。
川柳って審級とか神様みたいな格がないとおもうんですね(季語のような、七七のような)。だから《やさぐれてしまう》というか《不良的》に《野蛮》に《フリーダム》になっていく。でも、ずっと、定型がある。
その定型がどう川柳に作用しているのかっていうのがずっとふしぎで。それってね、ちょっと俗な話だけれども、ダイエットにも似ているとおもうんですね。このカロリー内ならなにを食べてもいいみたいな。カロリーが定型で、なにを食べてもいいが中味ですね。なにを食べてもいいんだけれど、食べ過ぎたりやりすぎたりすると、どうなのっておもわれる。じぶんでもどうなんだろっておもう。食っていうのは意味と同じように共同意識がありますから。で、定型をはみだしてもいいんだけれど、そういう気のゆるみによって、どんどん太っていくとかね。
そういうすこやかな不健全さというあわいに川柳があるんじゃないかというのがずっとじぶんの関心としてあるんです。こういう自意識のありかたってなんなのだろうと。ちょっとふだんの暮らしとはちがう自意識のチャンネル設定ですよね。リミッターを解除してあるというか。たとえば、こんなチャンネルのちがう「可愛いらし」もある。
夕方のぬかるみとても可愛いらし くんじろう
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