【感想】嫁がゐて四月で全く言ふ事無し 西村麒麟
- 2015/10/07
- 23:53
嫁がゐて四月で全く言ふ事無し 西村麒麟
天の川ここには何もなかりけり 冨田拓也
エクリチュールとは、限界を露呈するという唯一の必要性に従っている身振りである。ただしその限界とはコミュニケーションの限界ではなく、《コミュニケーションがそこで生じる限界》のことである。 ジャン=リュック・ナンシー『無為の共同体』
【軽いしわと無為の共同体】
よく冨田さんの「天の川ここには何もなかりけり」の句を考えているんですが、この「何もなかりけり」と麒麟さんの「全く言ふ事無し」の位相ってすこし似ているんじゃないかとおもったんです。
この位相ってなんなのかというと、無の状態からなにかがほんの一滴でもあふれることの限界値ってなんなのかっていう、〈なんにもない〉位相がほんのわずかでもいいから〈なにかある〉位相に移行するのはどの地点なんだろうってことなんじゃないかとおもうんです。
そういうですね、〈なにかある〉という〈ささいな出来事(インシデント)〉のリミット(なんにもない/なにかある)で俳句的事象って生起しているような気がするんです。だから、アクシデントとかイヴェントなどの〈大きな出来事〉ではなく、ほんの〈ささいな出来事〉の臨界で俳句は生起しているから、いつもどこかに〈なんにもない〉状態を俳句はかかえているようにも、おもう。
今福龍太さんがこんなことを述べられているんですよ。
ロラン・バルトは、もっぱらインシデントの方に関心があったようです。それは私も同じでした。アクシデントに対してインシデントは、あまりにも個人的で些細なことなので、ほとんど気がつかれないまま、歴史の片隅で、まさに不意に落ちる木の葉のごとく振る舞う。バルトは、こんな言い方をしています。「偶発的な小さな出来事……、日常の些事、アクシデントよりもはるかに重大ではないが、しかしおそらく事故よりもっと不安な出来事、日々の織物にもたらされるあの軽いしわ」。そして、その一つの典型的な例として、俳句を挙げるのです。俳句における事件性とは、徹頭徹尾インシデントの方です。
今福龍太「偶有性を呼び出す手法、反転可能性としての……」『談100号記念選集
こういう〈軽いしわ〉としての俳句は、いつも〈なんにもない位相〉と隣り合っている状態で起こっているようにもおもうんです。それはある意味、てばなしでいえば〈なんにもない〉、でもことばとして組織すれば〈なにかある〉、でも本来的には〈なんにもない〉位相をかかえこんでいる。しわっていうのは、たとえば笑顔のときとかふっとしたしゅんかんに生起して、つぎのしゅんかん、消えたりもするから。
だからこう〈なんにもない〉と〈なにかある〉が同時に隆起しているところに俳句的事象があるようにおもう。たとえば、
マスクしてそれでも笑顔だとわかる 江渡華子
天の川ここには何もなかりけり 冨田拓也
エクリチュールとは、限界を露呈するという唯一の必要性に従っている身振りである。ただしその限界とはコミュニケーションの限界ではなく、《コミュニケーションがそこで生じる限界》のことである。 ジャン=リュック・ナンシー『無為の共同体』
【軽いしわと無為の共同体】
よく冨田さんの「天の川ここには何もなかりけり」の句を考えているんですが、この「何もなかりけり」と麒麟さんの「全く言ふ事無し」の位相ってすこし似ているんじゃないかとおもったんです。
この位相ってなんなのかというと、無の状態からなにかがほんの一滴でもあふれることの限界値ってなんなのかっていう、〈なんにもない〉位相がほんのわずかでもいいから〈なにかある〉位相に移行するのはどの地点なんだろうってことなんじゃないかとおもうんです。
そういうですね、〈なにかある〉という〈ささいな出来事(インシデント)〉のリミット(なんにもない/なにかある)で俳句的事象って生起しているような気がするんです。だから、アクシデントとかイヴェントなどの〈大きな出来事〉ではなく、ほんの〈ささいな出来事〉の臨界で俳句は生起しているから、いつもどこかに〈なんにもない〉状態を俳句はかかえているようにも、おもう。
今福龍太さんがこんなことを述べられているんですよ。
ロラン・バルトは、もっぱらインシデントの方に関心があったようです。それは私も同じでした。アクシデントに対してインシデントは、あまりにも個人的で些細なことなので、ほとんど気がつかれないまま、歴史の片隅で、まさに不意に落ちる木の葉のごとく振る舞う。バルトは、こんな言い方をしています。「偶発的な小さな出来事……、日常の些事、アクシデントよりもはるかに重大ではないが、しかしおそらく事故よりもっと不安な出来事、日々の織物にもたらされるあの軽いしわ」。そして、その一つの典型的な例として、俳句を挙げるのです。俳句における事件性とは、徹頭徹尾インシデントの方です。
今福龍太「偶有性を呼び出す手法、反転可能性としての……」『談100号記念選集
こういう〈軽いしわ〉としての俳句は、いつも〈なんにもない位相〉と隣り合っている状態で起こっているようにもおもうんです。それはある意味、てばなしでいえば〈なんにもない〉、でもことばとして組織すれば〈なにかある〉、でも本来的には〈なんにもない〉位相をかかえこんでいる。しわっていうのは、たとえば笑顔のときとかふっとしたしゅんかんに生起して、つぎのしゅんかん、消えたりもするから。
だからこう〈なんにもない〉と〈なにかある〉が同時に隆起しているところに俳句的事象があるようにおもう。たとえば、
マスクしてそれでも笑顔だとわかる 江渡華子
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