【こわい川柳 第八十八話】合体させない-渡辺隆夫-
- 2015/10/08
- 12:00
水道水を禊ぎに止揚するなかれ 渡辺隆夫
いまは、何も、わからない。いや、笠井さんの場合、何もわからないと、そう言ってしまっても、ウソなのである。ひとつ、わかっている。一寸さきは闇だということだけが、わかっている。あとは、もう、何もわからない。ふっと気がついたら、そのような五里霧中の、山なのか、野原なのか、街頭なのか、それさえ何もわからない。そのような、無限に静寂な、真暗闇に、笠井さんは、いた。 太宰治「八十八夜」
【神か性器か】
この隆夫さんの句をみたときに、そういえば川柳と止揚=弁証法=合体っていうのはちょっと深い関わりがあるんじゃないのかなっておもったんです。
この隆夫さんの句は「水道水」と「禊ぎ」を合体させるな、わけたままでいろ、っていう句だとおもうんですね。
ひとは認識によっていろんなものを弁証法的にまとめあげていくんだけれども(たとえば『ドラゴンボール』とかは〈おめえもオラの仲間だ〉という認識でどんどん敵も弁証=止揚=同一化していく。敵の価値観を暴力的に食いつぶし、悟空の価値観で領域化していく)、川柳はそういう弁証法的認識を避ける。わけたままがまんしろ、という。
流木を神とみるか性器とみるか 渡辺隆夫
これもそうですね。「~とみるか~とみるか」構文っていうのは、合体させない構文なんです。神であり性器である御神体はないわけです。神か性器か、しかない。
レモン転がる これは点これは丸 松永千秋
彼方より飛来するもの茄子を焼く 楢崎進弘
この松永さんや楢崎さんの句もそうだとおもうんですよ。「点」と「丸」は〈違うんだ〉という認識、「彼方より飛来するもの」と「茄子」は〈違うんだ〉という認識。
だけれどもですね、川柳にはそれとともに奇妙な弁証法がある。それって止揚できないんじゃないの、というものを強引にしてしまう(わたしは以前それを〈川柳の錯誤〉と呼びました)。
諏訪湖とは昨日の夕御飯である 石部明
「諏訪湖」と「夕御飯」はどうしたって止揚できないとおもうんですよ。同一させようとして、非同一性をあからさまにしてしまうこと。これはアドルノの否定弁証法ですよね。
概念というものの方向を変え、非同一的なものに向けなおすこと、これが否定弁証法の要である。 アドルノ
合体させようとしてさせないこと。むりやりな合体をつくることで、そこにある非同一性の原理をあからさまに暴露させること。
そういう〈合体の禁忌〉というものが川柳にはあるようにおもう。
だからその点からみれば、川柳ってじつはエロス=融合=同一化の対極にあるものなんじゃないかっておもうんですよ。そういうエロスのタブーから現代川柳ははじまる。エロス的認識が放擲される。川柳はエロくなかった、というところから詩性がうまれる。
原子を作るための原男原女の集い 渡辺隆夫
いまは、何も、わからない。いや、笠井さんの場合、何もわからないと、そう言ってしまっても、ウソなのである。ひとつ、わかっている。一寸さきは闇だということだけが、わかっている。あとは、もう、何もわからない。ふっと気がついたら、そのような五里霧中の、山なのか、野原なのか、街頭なのか、それさえ何もわからない。そのような、無限に静寂な、真暗闇に、笠井さんは、いた。 太宰治「八十八夜」
【神か性器か】
この隆夫さんの句をみたときに、そういえば川柳と止揚=弁証法=合体っていうのはちょっと深い関わりがあるんじゃないのかなっておもったんです。
この隆夫さんの句は「水道水」と「禊ぎ」を合体させるな、わけたままでいろ、っていう句だとおもうんですね。
ひとは認識によっていろんなものを弁証法的にまとめあげていくんだけれども(たとえば『ドラゴンボール』とかは〈おめえもオラの仲間だ〉という認識でどんどん敵も弁証=止揚=同一化していく。敵の価値観を暴力的に食いつぶし、悟空の価値観で領域化していく)、川柳はそういう弁証法的認識を避ける。わけたままがまんしろ、という。
流木を神とみるか性器とみるか 渡辺隆夫
これもそうですね。「~とみるか~とみるか」構文っていうのは、合体させない構文なんです。神であり性器である御神体はないわけです。神か性器か、しかない。
レモン転がる これは点これは丸 松永千秋
彼方より飛来するもの茄子を焼く 楢崎進弘
この松永さんや楢崎さんの句もそうだとおもうんですよ。「点」と「丸」は〈違うんだ〉という認識、「彼方より飛来するもの」と「茄子」は〈違うんだ〉という認識。
だけれどもですね、川柳にはそれとともに奇妙な弁証法がある。それって止揚できないんじゃないの、というものを強引にしてしまう(わたしは以前それを〈川柳の錯誤〉と呼びました)。
諏訪湖とは昨日の夕御飯である 石部明
「諏訪湖」と「夕御飯」はどうしたって止揚できないとおもうんですよ。同一させようとして、非同一性をあからさまにしてしまうこと。これはアドルノの否定弁証法ですよね。
概念というものの方向を変え、非同一的なものに向けなおすこと、これが否定弁証法の要である。 アドルノ
合体させようとしてさせないこと。むりやりな合体をつくることで、そこにある非同一性の原理をあからさまに暴露させること。
そういう〈合体の禁忌〉というものが川柳にはあるようにおもう。
だからその点からみれば、川柳ってじつはエロス=融合=同一化の対極にあるものなんじゃないかっておもうんですよ。そういうエロスのタブーから現代川柳ははじまる。エロス的認識が放擲される。川柳はエロくなかった、というところから詩性がうまれる。
原子を作るための原男原女の集い 渡辺隆夫
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