【感想】看護婦さんと短詩型文芸-ナースと俳句・短歌をめぐって、或いはヤンキーと短詩型-
- 2015/10/11
- 01:00
いまは〈看護師〉さんですが、短詩型にはふしぎな感触をもって「看護婦」さんたちがあらわれます。なぜなんでしょう。
山の焚火をおそれ看護婦飛翔せり 攝津幸彦
高い窓に睡る看護婦縄に捲かれ 阿部完市
住み込みの看護婦三人月の夜に医院の庭になわ跳びをする 寺脇徹郎
なんで「飛翔」したり、「縄に捲かれ」たり、「なわ跳びを」したりするのが「看護婦」さんなのかってことなんじゃないかとおもうんです。そこには記号的逸脱や記号的跳躍があるようにおもう。言うなれば、〈記号のヤンキー化〉とでもいったらいいんでしょうか。記号が〈不良化〉するのです。
斎藤環さんが看護師とヤンキー文化をめぐってこんな指摘をされています。
美容師と看護師はヤンキー濃度のとりわけ高い職業。看護師って美意識から行動原理までけっこうヤンキー系なんです。これは必ずしも悪口じゃなく、むしろ彼女たちを見ているとヤンキー系の良さがよくわかる。明るく面倒見がよく、はすに構えずによく働く。すごく母性的
斎藤環『「性愛」格差論』
この「はすに構えず」というのがたぶん斎藤さんのヤンキー性にもつながっていくと思うんですが(ここでは〈ヤンキー〉というのはあくまで文化としての枠組みです)、この斎藤さんのヤンキー性っていうのはすごく大ざっぱにいうと、〈反知性=反歴史性〉としての〈感性的・現実的〉率直さだとおもうんですね。だからたとえばあのイルカなんかの絵が有名なラッセンはあまりにも率直にすぎるのでヤンキー的ということになります(これも斎藤さんの指摘です)。構図もど真ん中で、過剰にきらきらしていて、ロマンチックにあふれているのがラッセンの絵です(つまり、歴史志向ではなく、現実志向)。そこらへんにラッセンの絵画が思想的にではなく、社会学的にいつも取り上げられる理由もありそうですよね。どこがよいのか、という美学ではなく、なにが好きこのまれるのか、という社会学。
ヤンキーというのは積極的価値観としてはそういう〈知の放棄〉をもっている。〈知の放棄〉といっているけれど、〈知〉は別にポジティヴな価値観でもなんでもないわけで〈知〉をもってるからっていいってわけではないのだし、たとえば別の言い方をするならば、ヤンキー的とは〈感覚知・行動知・経験知〉の重視といってもいいとおもうんです(この知のありようは実はマンガ『ONE PIECE』に通じていて、マンガ『ONE PIECE』もヤンキー的価値観が大事になってくるのかなと思っています)。
で、ヤンキー的=知の放棄っていうのはつまり〈現実志向的〉ということもできるとおもいます。たとえば〈オラオラ系〉っていう〈草食系〉の反対のような男性カテゴリーがあるけれど、「強引に女性を有無をいわせずひっぱっていく」という〈オラオラ〉的ありかたは非常に現実志向的なわけです(ひっぱるという現在進行形)。もちろん「強引さ」が大事なのでそこには「知=理屈=理性の放棄」もあります。
で、ちょっと話がずれましたが、このヤンキー化=不良化が「看護婦」という記号をめぐってもなされていたと考えてみるのは、どうか。
ちょっと強引な流れではあるのだけれども、でも、短詩型という知で操作しやすい文芸様式のなかで「看護婦」という記号は特殊な意味生成をもっていったということもいえるのではないか。
そこには表現行為のなかであらわれる「看護婦」をめぐる記号的ズレのようなものがあったのではないかともおもうんです(いまももしかしたらそういう〈白衣の天使〉=「看護師(ナース)」さんへの現実―記号的葛藤ってあるのかもしれませんよね)。
ちょっとかなり強引な流れで語りすすめたかもしれませんが、「看護婦」と短詩型問題。ひとつのテーマとして、もうすこし時間をかけて、かんがえてゆきたいとおもっています。今回は端緒ということで。
ヤンキー系のアーティストに共通するのは、おおむね伝統や具体的影響の否認であり、みずからの経験と感性のみに基づいて描く、という態度だ。この姿勢はしばしば、ヤンキー特有の「反知性主義」につながる。ラッセンがヤンキー的であると考えられる最大の理由は、その「機能性」と「自己投影の希薄さ」にある。これは、以前ヤンキー音楽(矢沢永吉、BOOWY、DJ OZMAなど)の系譜について検討した際に、彼らの楽曲に共通する二大要素として抽出されたものだ。彼らの音楽は、おおむね使用目的や機能がはっきりしている。アゲること、気合いを入れること、笑わせ、泣かせ、切ない感傷に浸らせてくれること。彼らの音楽は、日常のさまざまなシーンに合わせて感情を操作するためのサプリメントのようなものだ。ならば「ラッセン」はいかに機能するか。その絵はヤンキー人気のことのほか高いハワイを舞台に、「調和」「エコ」「静寂」「浄化」などのイメージをちりばめることで、抜群のリラクセーション効果を発揮するだろう。ラッセンはいわばアロマキャンドルなのである。もうひとつは「自己投影の希薄さ」だ。ラッセンの表現は、ひたすら緊張の解放を目指すという意味において快感原則に奉仕する。作家の個性や葛藤、トラウマといった「自己投影」は異物として徹底して排除され、常にBGMのように後景にあってムードを醸成する効果のみが追求される。ここにもヤンキー系の音楽に共通する「現実志向」がみてとれるだろう。
斎藤環『ラッセンとは何だったのか?』
山の焚火をおそれ看護婦飛翔せり 攝津幸彦
高い窓に睡る看護婦縄に捲かれ 阿部完市
住み込みの看護婦三人月の夜に医院の庭になわ跳びをする 寺脇徹郎
なんで「飛翔」したり、「縄に捲かれ」たり、「なわ跳びを」したりするのが「看護婦」さんなのかってことなんじゃないかとおもうんです。そこには記号的逸脱や記号的跳躍があるようにおもう。言うなれば、〈記号のヤンキー化〉とでもいったらいいんでしょうか。記号が〈不良化〉するのです。
斎藤環さんが看護師とヤンキー文化をめぐってこんな指摘をされています。
美容師と看護師はヤンキー濃度のとりわけ高い職業。看護師って美意識から行動原理までけっこうヤンキー系なんです。これは必ずしも悪口じゃなく、むしろ彼女たちを見ているとヤンキー系の良さがよくわかる。明るく面倒見がよく、はすに構えずによく働く。すごく母性的
斎藤環『「性愛」格差論』
この「はすに構えず」というのがたぶん斎藤さんのヤンキー性にもつながっていくと思うんですが(ここでは〈ヤンキー〉というのはあくまで文化としての枠組みです)、この斎藤さんのヤンキー性っていうのはすごく大ざっぱにいうと、〈反知性=反歴史性〉としての〈感性的・現実的〉率直さだとおもうんですね。だからたとえばあのイルカなんかの絵が有名なラッセンはあまりにも率直にすぎるのでヤンキー的ということになります(これも斎藤さんの指摘です)。構図もど真ん中で、過剰にきらきらしていて、ロマンチックにあふれているのがラッセンの絵です(つまり、歴史志向ではなく、現実志向)。そこらへんにラッセンの絵画が思想的にではなく、社会学的にいつも取り上げられる理由もありそうですよね。どこがよいのか、という美学ではなく、なにが好きこのまれるのか、という社会学。
ヤンキーというのは積極的価値観としてはそういう〈知の放棄〉をもっている。〈知の放棄〉といっているけれど、〈知〉は別にポジティヴな価値観でもなんでもないわけで〈知〉をもってるからっていいってわけではないのだし、たとえば別の言い方をするならば、ヤンキー的とは〈感覚知・行動知・経験知〉の重視といってもいいとおもうんです(この知のありようは実はマンガ『ONE PIECE』に通じていて、マンガ『ONE PIECE』もヤンキー的価値観が大事になってくるのかなと思っています)。
で、ヤンキー的=知の放棄っていうのはつまり〈現実志向的〉ということもできるとおもいます。たとえば〈オラオラ系〉っていう〈草食系〉の反対のような男性カテゴリーがあるけれど、「強引に女性を有無をいわせずひっぱっていく」という〈オラオラ〉的ありかたは非常に現実志向的なわけです(ひっぱるという現在進行形)。もちろん「強引さ」が大事なのでそこには「知=理屈=理性の放棄」もあります。
で、ちょっと話がずれましたが、このヤンキー化=不良化が「看護婦」という記号をめぐってもなされていたと考えてみるのは、どうか。
ちょっと強引な流れではあるのだけれども、でも、短詩型という知で操作しやすい文芸様式のなかで「看護婦」という記号は特殊な意味生成をもっていったということもいえるのではないか。
そこには表現行為のなかであらわれる「看護婦」をめぐる記号的ズレのようなものがあったのではないかともおもうんです(いまももしかしたらそういう〈白衣の天使〉=「看護師(ナース)」さんへの現実―記号的葛藤ってあるのかもしれませんよね)。
ちょっとかなり強引な流れで語りすすめたかもしれませんが、「看護婦」と短詩型問題。ひとつのテーマとして、もうすこし時間をかけて、かんがえてゆきたいとおもっています。今回は端緒ということで。
ヤンキー系のアーティストに共通するのは、おおむね伝統や具体的影響の否認であり、みずからの経験と感性のみに基づいて描く、という態度だ。この姿勢はしばしば、ヤンキー特有の「反知性主義」につながる。ラッセンがヤンキー的であると考えられる最大の理由は、その「機能性」と「自己投影の希薄さ」にある。これは、以前ヤンキー音楽(矢沢永吉、BOOWY、DJ OZMAなど)の系譜について検討した際に、彼らの楽曲に共通する二大要素として抽出されたものだ。彼らの音楽は、おおむね使用目的や機能がはっきりしている。アゲること、気合いを入れること、笑わせ、泣かせ、切ない感傷に浸らせてくれること。彼らの音楽は、日常のさまざまなシーンに合わせて感情を操作するためのサプリメントのようなものだ。ならば「ラッセン」はいかに機能するか。その絵はヤンキー人気のことのほか高いハワイを舞台に、「調和」「エコ」「静寂」「浄化」などのイメージをちりばめることで、抜群のリラクセーション効果を発揮するだろう。ラッセンはいわばアロマキャンドルなのである。もうひとつは「自己投影の希薄さ」だ。ラッセンの表現は、ひたすら緊張の解放を目指すという意味において快感原則に奉仕する。作家の個性や葛藤、トラウマといった「自己投影」は異物として徹底して排除され、常にBGMのように後景にあってムードを醸成する効果のみが追求される。ここにもヤンキー系の音楽に共通する「現実志向」がみてとれるだろう。
斎藤環『ラッセンとは何だったのか?』
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