【感想】君の敵のウチカワのことをなぜか思ふウチカワが勝てばいいと思へり 澤村斉美
- 2015/10/12
- 01:00
ウチカワなる人物に夫はくるしめりウチカワのかほ竹藪のなか 澤村斉美
君の敵のウチカワのことをなぜか思ふウチカワが勝てばいいと思へり 〃
顔を「見ること」は、それ自体がことばである。顔を見るとは、世界についてことばを語り出すことである。超越とはひとつの光学ではない。最初の倫理的な身ぶりなのである。 レヴィナス『全体性と無限』
趙州ちなみに僧問う、狗子に還って仏性有りや、また無しや。州云わく、無。 「無門関 第一則「趙州狗子」」
【問「ウチカワにも仏性があるでしょうか?」、答「ウチカワなどいない」】
きのうの染野太朗さんのNHK短歌のゲストに澤村斉美さんが来られていたんですが、そのときに染野さんが紹介されていた澤村さんの「ウチカワ」をめぐる短歌がとてもおもしろかったんですよ。
ウチカワなる人物に夫はくるしめりウチカワのかほ竹藪のなか 澤村斉美
君の敵のウチカワのことをなぜか思ふウチカワが勝てばいいと思へり 〃
語り手が「夫は」と言っているのでこの語り手は「妻」ということになる。つまり、「夫」と語り手の「妻」で「ウチカワ」という人物の空間をたちあげている歌です。
空間をたちあげてしまっているということは、夫だけでなく、妻までもが〈キャラクター〉としての「ウチカワ」を立ち上げる空間にもう参加してしまっているということだとおもうんですよ。
歌うっていうことは、その歌う対象を客観的に対象化しながらも、その対象の磁力に巻き取られ、〈負け〉ていく過程でもあるんじゃないかとおもうんですよ。
だからですね、「ウチカワが勝てばいいと思へり」っていうのは、そうした磁場のゲーム、キャラクター生成の歌の現場のゲームから、ウチカワよおまえは勝ってもいいからもう出ていってくれ、っていうことでもあるのかなともおもうんです。「ウチカワ」が負ければ「ウチカワ」はまた夫とわたしのもとにやってきて磁場をつくり、把持しがたい〈顔〉としてこちらにつかまえがたい〈非意味〉を意味の竹藪のなかから投げかけつづけるのだろうから。
そういう非意味の判別しがたい竹藪の磁場からウチカワを追い払い、勝ち/負けという白黒つく場所へとうっちゃること。夫とわたしの非意味的な場所、非意味的な顔を共有する場所からウチカワを追い出すこと。それがウチカワよおまえに勝ちはあげるよ、ってことなんじゃないのかなっておもったんです。
勝ち、っていうのは、意味のことなんじゃないかと。よく禅の『無門関』の公案として〈悟り〉をめぐる問題としても出てくるんだけれど、勝つか・負けるか、ではなく、〈いや別にどっちでもいいんだ〉と受容できることが、〈悟り〉に近いわけですよね。だから「犬にも仏性はあるのかないのか?」ってひとからきかれたら黙ってそのひとを殴ればいいわけです。「どっちでもない!」って。〈そのどちらか〉かという意味的場所が大切なんじゃなくて、〈どっちでもいい〉という非意味的場所をそのまんま受け止めることが大事だったりする。
ウチカワっていうのはそういうのをそのまんまみずからの/わたしたちの〈ウチガワ(内側)〉として受け取れるかどうかっていう賭金=試金石になってるんじゃないかとおもうんですよ。
〈君〉や〈あなた〉によって「これ」は決して「これ」でなく、「これ」は「あれ」であってもいいんだと知ることが、〈悟り〉だともおもうんですよ。かち・まけ、でなく。
きつとこれが最後と思ひ会ひに行く五度も六度も最後と思ふ 澤村斉美
君の敵のウチカワのことをなぜか思ふウチカワが勝てばいいと思へり 〃
顔を「見ること」は、それ自体がことばである。顔を見るとは、世界についてことばを語り出すことである。超越とはひとつの光学ではない。最初の倫理的な身ぶりなのである。 レヴィナス『全体性と無限』
趙州ちなみに僧問う、狗子に還って仏性有りや、また無しや。州云わく、無。 「無門関 第一則「趙州狗子」」
【問「ウチカワにも仏性があるでしょうか?」、答「ウチカワなどいない」】
きのうの染野太朗さんのNHK短歌のゲストに澤村斉美さんが来られていたんですが、そのときに染野さんが紹介されていた澤村さんの「ウチカワ」をめぐる短歌がとてもおもしろかったんですよ。
ウチカワなる人物に夫はくるしめりウチカワのかほ竹藪のなか 澤村斉美
君の敵のウチカワのことをなぜか思ふウチカワが勝てばいいと思へり 〃
語り手が「夫は」と言っているのでこの語り手は「妻」ということになる。つまり、「夫」と語り手の「妻」で「ウチカワ」という人物の空間をたちあげている歌です。
空間をたちあげてしまっているということは、夫だけでなく、妻までもが〈キャラクター〉としての「ウチカワ」を立ち上げる空間にもう参加してしまっているということだとおもうんですよ。
歌うっていうことは、その歌う対象を客観的に対象化しながらも、その対象の磁力に巻き取られ、〈負け〉ていく過程でもあるんじゃないかとおもうんですよ。
だからですね、「ウチカワが勝てばいいと思へり」っていうのは、そうした磁場のゲーム、キャラクター生成の歌の現場のゲームから、ウチカワよおまえは勝ってもいいからもう出ていってくれ、っていうことでもあるのかなともおもうんです。「ウチカワ」が負ければ「ウチカワ」はまた夫とわたしのもとにやってきて磁場をつくり、把持しがたい〈顔〉としてこちらにつかまえがたい〈非意味〉を意味の竹藪のなかから投げかけつづけるのだろうから。
そういう非意味の判別しがたい竹藪の磁場からウチカワを追い払い、勝ち/負けという白黒つく場所へとうっちゃること。夫とわたしの非意味的な場所、非意味的な顔を共有する場所からウチカワを追い出すこと。それがウチカワよおまえに勝ちはあげるよ、ってことなんじゃないのかなっておもったんです。
勝ち、っていうのは、意味のことなんじゃないかと。よく禅の『無門関』の公案として〈悟り〉をめぐる問題としても出てくるんだけれど、勝つか・負けるか、ではなく、〈いや別にどっちでもいいんだ〉と受容できることが、〈悟り〉に近いわけですよね。だから「犬にも仏性はあるのかないのか?」ってひとからきかれたら黙ってそのひとを殴ればいいわけです。「どっちでもない!」って。〈そのどちらか〉かという意味的場所が大切なんじゃなくて、〈どっちでもいい〉という非意味的場所をそのまんま受け止めることが大事だったりする。
ウチカワっていうのはそういうのをそのまんまみずからの/わたしたちの〈ウチガワ(内側)〉として受け取れるかどうかっていう賭金=試金石になってるんじゃないかとおもうんですよ。
〈君〉や〈あなた〉によって「これ」は決して「これ」でなく、「これ」は「あれ」であってもいいんだと知ることが、〈悟り〉だともおもうんですよ。かち・まけ、でなく。
きつとこれが最後と思ひ会ひに行く五度も六度も最後と思ふ 澤村斉美
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