【感想】春が来る断続的に気絶する 竹井紫乙
- 2015/10/14
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春が来る断続的に気絶する 竹井紫乙
十二月二十八日 晴
長い間の片思いのひとから、「好きなひとができました。これから一生そのひととしあわせに暮らします」
という葉書がきた。泣きながら、いちにち花の種を蒔(ま)いた。途中少しの間気を失い、それからいくらか元気が出たので、夕飯には蛸(たこ)を煮た。
川上弘美『椰子・椰子』
【気絶と現代川柳】
竹井紫乙さんの句集『白百合亭日常』からの一句です。
この句から考えてみたいのは〈気絶〉ってなんだろうっていうことです。
文学上の気絶として、ヒントになるかもしれないとおもって、川上弘美さんの〈気絶〉の文章も引いてみました。
この文章からわかるのは、〈気絶〉っていうのはある受け止めがたい出来事が起こったときにその〈回避〉としてあらわれるということです。
気絶というのは、意識と身体のチャンネルを同時にストップすることですから、ある意味では、全的回避ということになります。
ひとはふだん自分が自分であろうとすることによって自分=自分意識のなかで暮らしていますが、この=を〈気絶〉によってとっぱらうわけです。
すると、出来事があったとしても、その出来事の受容者としての自分はいなくなります。ただ死ぬわけではないので、それはいずれ意識が回復したときに受け止めることになるでしょう。ですから、〈回避〉というよりも〈受容の遅延〉ということになるかもしれません。
しおとさんの句でも「春が来る」とまず〈出来事〉があります。これのおそらくは〈回避〉として気絶がでている。
でも「断続的に気絶する」とも、語られていますよね。ちょっとずつ、ちょっとずつ、プチ気絶していくわけです。気絶しては、たちあがり、気絶しては、たちあがる。そういうしずかな、とてもしずかな七転八倒をくりかえす。
それがこの語り手の春の受容のしかたということになるのではないでしょうか。
わたしもときどき、これはまずい、この状況はまずい、この状況はシリアスだよ、と思ったときは、まぶたをしずかに閉じて、すこしのあいだ、自主的に〈気絶〉することにしています。
そうして時間がたってから、しずかに、まぶたを、ひらく。
まだ、そこに、ぷりぷりが発現しているときは、もういちど、しずかに、まぶたを、とじる。
妖精が書いた記事だと思います 竹井紫乙
キェシロフスキ『終わりなし』。これから彼女は意識と肉体のない世界(死んだ夫のいる世界)におもむこうとしている
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