【感想】もうすこし私を待ってみるスタバ 八上桐子
- 2014/06/20
- 01:46
もうすこし私を待ってみるスタバ 八上桐子
【ゴドーを待ちながら@スタバ】
ひとつ前の記事でも書いたことなんですが、川柳っていうのは目の前の対象物をうたうよりも、むしろ語る〈この・わたし〉をうたうもの。もっといえば、語り手がつきくずされてしまうその瞬間をうたうものではないか、というふうにおもっています。
この八上さんのスタバの句は、まさに「私」が外部にある句です。語り手としての〈私〉は「スタバ」にいてこの句を語っています。でもその〈私〉は「私」を「待って」います。しかもここが大事なところだとおもうんですが、上五に「もうすこし」とあるように「もうすこし」でこなければ〈私〉は「私」を待たず、見切り、このスタバをあとにするかもしれません。そうかんがえてみると語り手にとってスタバとは「私」に出会える場どもあると同時に「私」を見切る可能性も胚胎している〈場〉なんですね。
しかし、そうした出会いと別れが潜在的に可能な「私」とは何者なのか、ということが気になってきます。というよりも、どういうことなのか。なにが起きているのか。
「私を」とあるように「私」は目的格におかれています。ただここでポイントになるのは「私」が殴る・けるなどの行為の対象になっているのではなく、やって来る「私」としての主格としての目的格になっていることです。むしろ、待っている、受動的なのはこの語り手なのです。とすると、この語り手はへんなはなしですが、「あなた」としての二人称的立場にたっていることになります。この句がすこしめまいのようなものを感じるとするならば、おそらくそれが理由なのではないかとおもいます。語り手がいつのまにか一人称的主体から、二人称的主体になってしまっているということ。
わたしはここには〈待つ〉という文学においては特権的な主題とされていた行為の秘密が見え隠れしているようにおもいます。〈待つ〉という行為は、待っている主体をいつのまにか、〈わたくし=一人称主体〉から、〈あなた=二人称主体〉に置換してしまうのではないか。
そしてその〈私〉を待つ二人称主体という主体は、実は川柳的主体としてはむしろ親和性が強いものなのではないか。
わたしはこの句にはそんなふうな「私」との潜在的遭遇・別離からの二人称主体としての語り手が潜んでいるんじゃないかとおもっています。
むずかしいいいかたをしなくても、スタバで本を読んでいるとわかるんですが、わたしがわたしとして機能しているのか、それとも誰かに対するあなたとしてこのスタバで本を読んでいるのかわからなくなってきます。それは、スタバという空間が、あえて客同士で視線を交錯するような配置としての空間にしているからなんじゃないかとおもうんですよね。つまり、あの空間は、わたしに没頭する空間であるまえに、ビジネスやライトな趣味を展示価値的にすこしハイソなかんじで共有しあう空間だとおもうんですよね。だからその意味ではマックとはちがいます。マックのかんじで勉強していて居心地がわるくなったらおそらくそのせいだとおもいます。そういったスタバの展示価値的空間もこの句には含意されているようにおもいます。
目を閉じるあなたを零さないように 八上桐子
【ゴドーを待ちながら@スタバ】
ひとつ前の記事でも書いたことなんですが、川柳っていうのは目の前の対象物をうたうよりも、むしろ語る〈この・わたし〉をうたうもの。もっといえば、語り手がつきくずされてしまうその瞬間をうたうものではないか、というふうにおもっています。
この八上さんのスタバの句は、まさに「私」が外部にある句です。語り手としての〈私〉は「スタバ」にいてこの句を語っています。でもその〈私〉は「私」を「待って」います。しかもここが大事なところだとおもうんですが、上五に「もうすこし」とあるように「もうすこし」でこなければ〈私〉は「私」を待たず、見切り、このスタバをあとにするかもしれません。そうかんがえてみると語り手にとってスタバとは「私」に出会える場どもあると同時に「私」を見切る可能性も胚胎している〈場〉なんですね。
しかし、そうした出会いと別れが潜在的に可能な「私」とは何者なのか、ということが気になってきます。というよりも、どういうことなのか。なにが起きているのか。
「私を」とあるように「私」は目的格におかれています。ただここでポイントになるのは「私」が殴る・けるなどの行為の対象になっているのではなく、やって来る「私」としての主格としての目的格になっていることです。むしろ、待っている、受動的なのはこの語り手なのです。とすると、この語り手はへんなはなしですが、「あなた」としての二人称的立場にたっていることになります。この句がすこしめまいのようなものを感じるとするならば、おそらくそれが理由なのではないかとおもいます。語り手がいつのまにか一人称的主体から、二人称的主体になってしまっているということ。
わたしはここには〈待つ〉という文学においては特権的な主題とされていた行為の秘密が見え隠れしているようにおもいます。〈待つ〉という行為は、待っている主体をいつのまにか、〈わたくし=一人称主体〉から、〈あなた=二人称主体〉に置換してしまうのではないか。
そしてその〈私〉を待つ二人称主体という主体は、実は川柳的主体としてはむしろ親和性が強いものなのではないか。
わたしはこの句にはそんなふうな「私」との潜在的遭遇・別離からの二人称主体としての語り手が潜んでいるんじゃないかとおもっています。
むずかしいいいかたをしなくても、スタバで本を読んでいるとわかるんですが、わたしがわたしとして機能しているのか、それとも誰かに対するあなたとしてこのスタバで本を読んでいるのかわからなくなってきます。それは、スタバという空間が、あえて客同士で視線を交錯するような配置としての空間にしているからなんじゃないかとおもうんですよね。つまり、あの空間は、わたしに没頭する空間であるまえに、ビジネスやライトな趣味を展示価値的にすこしハイソなかんじで共有しあう空間だとおもうんですよね。だからその意味ではマックとはちがいます。マックのかんじで勉強していて居心地がわるくなったらおそらくそのせいだとおもいます。そういったスタバの展示価値的空間もこの句には含意されているようにおもいます。
目を閉じるあなたを零さないように 八上桐子
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