【お知らせ】「【短詩時評 第四話】鴇田智哉とウルトラセブン-狙われた俳句と手続きのひみつ-」『俳句新空間 第28号』
- 2015/10/16
- 00:04
『俳句新空間 第28号』にて「【短詩時評 第四話】鴇田智哉とウルトラセブン-狙われた俳句と手続きのひみつ-」という文章を載せていただきました。『俳句新空間』編集部にお礼申し上げます。ありがとうございました!
お時間のあるときにお読みくだされば、さいわいです。
今回は鴇田智哉さんの俳句について書いてみました。
鴇田さんの俳句ってふしぎで、で、鴇田さん自身が、「もし自分が突き詰めていった先が俳句のようなものでなくなるならそれはそれでかまわない」というようなことをおっしゃっていたときにそうした行き着いたさきの〈根源的ななにか〉がぎゃくに一般的には〈ふしぎな認識〉にみえる場合があるんじゃないかとおもったりしたんです。つまりこう、認識のメガネをなんぼんもなんぼんも自分からはずしていったときにどういう根源にゆきつくのかというような。
それはたぶん重たい根源じゃなくて、ふわっとした軽い根源のようなものかもしれないし、たとえば中山奈々さんがかつてブッダが俳句を詠んだらどうなるかという興味深い問題を提出されていたけれど、ブッダが俳句を詠んだら鴇田さんのような俳句のてざわりになるんじゃないかともおもうわけです。
で、その〈てざわり〉っていうのは決して思想的なものじゃなくて、ふっとそこらに、とても近くにもあるんじゃないかとも思ったりもするんですね。たとえば今回とりあげた鴇田さんの「7」の句をセブンイレブンから読むのもありかもしれない、とかいろんなふうにおもう。ただすこしだけ認識のメガネがズレれば鴇田さんの句はふだんの暮らしのなかにあるわけですから。
で、ですね。鴇田さんの超越性と具体性を同時にもっている俳句って、ウルトラマンやウルトラセブンにちょっと近いんじゃないかなとおもったんですよ。超越的であると同時に、〈着ぐるみ的〉な身体感があるもの。だから今回、鴇田さんがウルトラセブンに出会ったらどうなるのかなということも少しかんがえてみました。
「春めく」という超越的抽象景観からの「枝にあたつて」の着ぐるみ的身体感。そのふたつがあって初めて「気づく」。
春めくと枝にあたつてから気づく 鴇田智哉
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