【感想】攝津幸彦と〈である〉体-魂は魂自身さえも覗きこむとプラトンは言うが-
- 2015/10/16
- 00:30
夢である小鳥は父で舌である 攝津幸彦
沈黙や夕べはひどく犀である 〃
ビーフカリーは最も淋しい朱夏である 〃
【である(のか)】
ときどき気になっているのが短詩型における断定の「である体」です。
「である」っていうのはそもそも根拠や論拠があって結論として「である」として結ぶはずなのに、音数が限られた短詩型でも「である」がときどき出てきます。
これは、なんなのか。
たとえば攝津幸彦の俳句にも印象的なかたちでたびたび出てきます。
たぶん一読したときに思うのは、「って言われても…」だとおもうんですよ、正直なところは。
これはもしかしたら「そんなこと言われてもあなたのことよく知らないし」と思うときの状態と似ているかもしれないし。
つまり短詩型で「である」が出てくるとあまりにもとつぜんすぎて非常に〈ぶしつけ〉な感じが出てくるわけです。
この〈ぶしつけ〉な感じがちょっと大事かなとおもうんです。〈ぶしつけ〉なのは、語り手が全面に一気に飛び出してくるからです。この「である」の言語的香りっていうのは、そういう「わたしはいまこのことをあなたに全面的に主張しています」っていうのを一気に縮約したかたちであなた(読み手)に手渡します。それはあなたが受け取ろうと受け取るまいとそんなことは関係ないのです。たとえば「あなたのことが好きなのである」といわれたら、あなたは「はい」や「いいえ」で答える必要はないし、その隙もないのです。それはあくまで〈主張〉なので。
読み手にうむをいわさずに、一気に空間ごとあなたの手に託し込んでいく。それが「である」というモダリティ(言語的位置性)だとおもうんですよ。
もちろん、「違うよ」って反論してもいいんですが、短詩型は論説ではないので、それは意味がないんです。もともと根拠や論拠のない「である」なので。
じゃあ、どうすればいいのか。
どうすれば、いいんだろ。
アンゲロプロス『ユリシーズの瞳』。歴史のなかにおいて〈である〉と断定するポイントをひとは見つけることができるだろうか。ロングショットと断定の拮抗する映画
沈黙や夕べはひどく犀である 〃
ビーフカリーは最も淋しい朱夏である 〃
【である(のか)】
ときどき気になっているのが短詩型における断定の「である体」です。
「である」っていうのはそもそも根拠や論拠があって結論として「である」として結ぶはずなのに、音数が限られた短詩型でも「である」がときどき出てきます。
これは、なんなのか。
たとえば攝津幸彦の俳句にも印象的なかたちでたびたび出てきます。
たぶん一読したときに思うのは、「って言われても…」だとおもうんですよ、正直なところは。
これはもしかしたら「そんなこと言われてもあなたのことよく知らないし」と思うときの状態と似ているかもしれないし。
つまり短詩型で「である」が出てくるとあまりにもとつぜんすぎて非常に〈ぶしつけ〉な感じが出てくるわけです。
この〈ぶしつけ〉な感じがちょっと大事かなとおもうんです。〈ぶしつけ〉なのは、語り手が全面に一気に飛び出してくるからです。この「である」の言語的香りっていうのは、そういう「わたしはいまこのことをあなたに全面的に主張しています」っていうのを一気に縮約したかたちであなた(読み手)に手渡します。それはあなたが受け取ろうと受け取るまいとそんなことは関係ないのです。たとえば「あなたのことが好きなのである」といわれたら、あなたは「はい」や「いいえ」で答える必要はないし、その隙もないのです。それはあくまで〈主張〉なので。
読み手にうむをいわさずに、一気に空間ごとあなたの手に託し込んでいく。それが「である」というモダリティ(言語的位置性)だとおもうんですよ。
もちろん、「違うよ」って反論してもいいんですが、短詩型は論説ではないので、それは意味がないんです。もともと根拠や論拠のない「である」なので。
じゃあ、どうすればいいのか。
どうすれば、いいんだろ。
アンゲロプロス『ユリシーズの瞳』。歴史のなかにおいて〈である〉と断定するポイントをひとは見つけることができるだろうか。ロングショットと断定の拮抗する映画
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