言葉の担架に乗せられ運ばれながら書いたあとがき
- 2015/10/18
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俳句形式の有機的実体、つまり俳句の肉体性が翳りはじめたとき、そこへ私達は(高柳重信や加藤郁乎も含めて)、俳句形式へ鏡(鏡面体)を嵌めこむことに成功したのである。形式に鏡をセットすることで、ともかく複雑な映写機能を獲得した。 安井浩司「未確認物質について」『攝津幸彦全句集』
人生のさんさんななびょばいおれんす 柳本々々
人生はやさしき担架曼珠沙華 小津夜景
「【みみず・ぶっくす 42】 川柳とその狂度/小津夜景」
小津夜景さんから句を引用していただき、かつ、その句を前書きとして夜景さんが句をつくっていうという試みの連作作品を書いていただきました。夜景さん、ありがとうございました。
小津さんの攝津幸彦賞準賞作品である「出アバラヤ記」を読ませていただいたときも思ったことなんですが、小津さんがいつもなによりも試みられているのはまず〈ハイパーリンク形式〉なのではないかと思うんですよね。
つまり、小津さん自体は「アバラヤ」としての空室にいるのかもしれないけれど、その「アバラヤ」からさまざまなところにリンクをとばしていく。
で、ふつうはリンクは潜在的にあるのかもしれないけれど、小津さんはそれをあえて〈あからさま〉にして、リンクの廃墟というか、建造物が倒壊し階層が剥き出しになったリンクの陋屋を連作としてたちあげる。
もしわたしが小津さんの作品を読みつつじぶんなりに「出アバラヤ記」を書くとしたらそういうことになるんじゃないかと思うんです。「アバラヤ」が「アバラヤ」であることを省みながら「アバラヤ」であることを〈バラ〉されつつも〈出=エクソダス〉があちこちにうがたれた〈アパートメント〉のようになっていくこと。
小津さんは、ジョン・ケージを聴きながら俳句を詠むときもあるとおっしゃられていたこともあったけれど、おそらくジョン・ケージの沈黙の音にはハイパーリンク形式で森の鹿やキノコへと音符がとびかっていたとおもうんですよ。そういう形式で鳴らせる楽器のようなものが連作なんじゃないかと小津さんから教えてもらったようにおもいます。
真夜中の Moominmammaの mの数 柳本々々
長き夜のMemento moriのmの襞 小津夜景
クストリッツァ『アンダーグラウンド』。この映画では、だれかのだれかに対する〈狂度=強度〉が物語をつねに動かしていくが、どうじに国家や歴史の強度と、ひとりの人間の生や愛の〈狂度〉が対等なレベルでぶつかりあいながら祝祭的な物語空間を織り上げていく。カーニバルとは、大きな物語と小さな物語をないまぜにするマジカルな綴じ目ではないか
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