【感想】親族の眼鏡を一つずつ毀す 山本忠次郎
- 2014/06/21
- 22:55
親族の眼鏡を一つずつ毀す 山本忠次郎
【メガネ・パンチと、眼鏡の粉末】
眼鏡の川柳や短歌や俳句ってたくさんあるんですが、そのなかでも少し異色な壊す眼鏡の句です。
ポイントは、ただの眼鏡じゃなくて、「親族の眼鏡」という係累のある眼鏡である点なんじゃないかなとおもうんです。
この「親族の」というのは実に微妙な関係で、「私の」眼鏡や「家族の」眼鏡じゃないので、眼鏡としても距離感があるわけです。視力もぜんぜんわからないだろうし、そもそも見慣れない眼鏡だろうし、こわしたあとに元の関係には戻れないかもしれない。そういう不可逆のちからをもってこわしているのがポイントだとおもうんです。
しかも「一つずつ」こわすというのは、かなり入念に、ていねいに、こわしていってるわけです。親族というアバウトでおおざっぱな括りでありながら、「一つずつ」ということばを句またがりで入れることによって、「ひとつ・ずつ」という語り手の念入りのありようがでています。壊す、じゃなく、毀す、という表記にももちろんそれはあらわれていて、「毀す」という漢字は「毀(こぼ)す」とも読むんですが、つまり、眼鏡が粉末化するように細密に語り手は破壊していってるわけです。
「親族」から「一つずつの眼鏡」と語り手の焦点がしぼられていったように、語り手にとって「眼鏡」とは、概念や感情を焦点化するもの、感情を極度に〈絞る〉ものだったようにおもうんですね。だからこの句であらわれているのは、眼鏡を通した語り手の感情的視差なのではないかとおもっています。しかし、語り手は親族の眼鏡をとおしてはじめて破壊行為を表現としてあらわしえたのだとも。
デリダの「代補」という概念があるんですが、これは、「余分なものだけれども・ないと困るもの」といったような両義的な意味合いをふくんだデリダらしいふしぎな概念です。実は眼鏡とはこういった本人の代理として表現されるのだけれども、しかし代理だからといって本人がそれをなくすと困るもの、といったような〈代補〉のような存在なのではないかとおもうのです。その親族の代補に語り手はたちあって、破壊している。しかしか、だとしたら、その破壊行為を代理=表象してしまっている語り手にとっての眼鏡=定型=川柳とはいったいなんなのか。語り手がその眼鏡を破壊するとき語り手はどんな風景をみることになるのか。そもそもそういった眼鏡=強化ガラスをとおしてひとは〈現実(リアル)〉の代補にであうのか。
きになるところです。
日の丸の旗がうつった強化ガラス 山本忠次郎
【メガネ・パンチと、眼鏡の粉末】
眼鏡の川柳や短歌や俳句ってたくさんあるんですが、そのなかでも少し異色な壊す眼鏡の句です。
ポイントは、ただの眼鏡じゃなくて、「親族の眼鏡」という係累のある眼鏡である点なんじゃないかなとおもうんです。
この「親族の」というのは実に微妙な関係で、「私の」眼鏡や「家族の」眼鏡じゃないので、眼鏡としても距離感があるわけです。視力もぜんぜんわからないだろうし、そもそも見慣れない眼鏡だろうし、こわしたあとに元の関係には戻れないかもしれない。そういう不可逆のちからをもってこわしているのがポイントだとおもうんです。
しかも「一つずつ」こわすというのは、かなり入念に、ていねいに、こわしていってるわけです。親族というアバウトでおおざっぱな括りでありながら、「一つずつ」ということばを句またがりで入れることによって、「ひとつ・ずつ」という語り手の念入りのありようがでています。壊す、じゃなく、毀す、という表記にももちろんそれはあらわれていて、「毀す」という漢字は「毀(こぼ)す」とも読むんですが、つまり、眼鏡が粉末化するように細密に語り手は破壊していってるわけです。
「親族」から「一つずつの眼鏡」と語り手の焦点がしぼられていったように、語り手にとって「眼鏡」とは、概念や感情を焦点化するもの、感情を極度に〈絞る〉ものだったようにおもうんですね。だからこの句であらわれているのは、眼鏡を通した語り手の感情的視差なのではないかとおもっています。しかし、語り手は親族の眼鏡をとおしてはじめて破壊行為を表現としてあらわしえたのだとも。
デリダの「代補」という概念があるんですが、これは、「余分なものだけれども・ないと困るもの」といったような両義的な意味合いをふくんだデリダらしいふしぎな概念です。実は眼鏡とはこういった本人の代理として表現されるのだけれども、しかし代理だからといって本人がそれをなくすと困るもの、といったような〈代補〉のような存在なのではないかとおもうのです。その親族の代補に語り手はたちあって、破壊している。しかしか、だとしたら、その破壊行為を代理=表象してしまっている語り手にとっての眼鏡=定型=川柳とはいったいなんなのか。語り手がその眼鏡を破壊するとき語り手はどんな風景をみることになるのか。そもそもそういった眼鏡=強化ガラスをとおしてひとは〈現実(リアル)〉の代補にであうのか。
きになるところです。
日の丸の旗がうつった強化ガラス 山本忠次郎
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