【感想】家庭科で何かを織ったことがある 津田暹
- 2015/10/19
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家庭科で何かを織ったことがある 津田暹
【忘れることは、記憶すること】
よく国語表現やコミュニケーションとして、「何か」という曖昧なものがあったとしても具体的に説明できる言語能力を身につけられるよう求められると思うんですが、川柳はそういう説明をする/しないの〈むこうがわ〉にあるんじゃないかとおもったりするんです。
「何か」は「何か」のままでもいい、と。
この津田さんの句で大事だと思うのは、《「何か」をいいあてなかったし、思い出そうとさえしなかった》ということなんじゃないかとおもうんですよ。
もちろん、「何か」は覚えているんです。記憶の輪郭として。ただそれが〈何なのか〉はわからない、わからないままでいようとする。そこに名詞や意味内容をもちこまない。もちこませない。
この「家庭科で」という上5も大事なようにおもいます。「家庭科で」というのは他者から強制的に与えられた枠組みだから覚えているし、覚えておくし、明記しておく。でも自分のなした行為・実践としての「何か」は明記しないでおく。だからこそ、この「家庭科で」という制度的枠組みにとらえられずに、語り手の〈いま〉の記憶がかえって生き生きとしてくる。
思い出せないとうことは、実は記憶が生き生きとしているということなんですよ。おどろくべきことに。
思い出せるということは、そのときの枠組みに回収されていて、自分の記憶が死んでいる状態だとおもうんですね。
思い出せない、でも「何か」はわかる。そのときにいちばんひとって思い出を生きようとしているんじゃないかとおもうんですよ。
だから、忘れることは、思い出すことだと、おもうんですよ。
織り目から他人が消えてゆくきのう 草地豊子
タルコフスキー『惑星ソラリス』(1972)。ラスト近く、唐突にクローズアップされ挿入される主人公クリスの耳毛のシーン。昔からずっと謎だったのだが、しかし映画にはこうした不可解な、どこにも回収しえない〈何か〉が充溢している。プラズマ状のソラリスの海によって、クリスの思い出は物質化し、死んだ妻はよみがえる。でも、それは妻であって、妻ではない。記憶と非記憶の往還をただよう〈何か〉でしかないのだ
【忘れることは、記憶すること】
よく国語表現やコミュニケーションとして、「何か」という曖昧なものがあったとしても具体的に説明できる言語能力を身につけられるよう求められると思うんですが、川柳はそういう説明をする/しないの〈むこうがわ〉にあるんじゃないかとおもったりするんです。
「何か」は「何か」のままでもいい、と。
この津田さんの句で大事だと思うのは、《「何か」をいいあてなかったし、思い出そうとさえしなかった》ということなんじゃないかとおもうんですよ。
もちろん、「何か」は覚えているんです。記憶の輪郭として。ただそれが〈何なのか〉はわからない、わからないままでいようとする。そこに名詞や意味内容をもちこまない。もちこませない。
この「家庭科で」という上5も大事なようにおもいます。「家庭科で」というのは他者から強制的に与えられた枠組みだから覚えているし、覚えておくし、明記しておく。でも自分のなした行為・実践としての「何か」は明記しないでおく。だからこそ、この「家庭科で」という制度的枠組みにとらえられずに、語り手の〈いま〉の記憶がかえって生き生きとしてくる。
思い出せないとうことは、実は記憶が生き生きとしているということなんですよ。おどろくべきことに。
思い出せるということは、そのときの枠組みに回収されていて、自分の記憶が死んでいる状態だとおもうんですね。
思い出せない、でも「何か」はわかる。そのときにいちばんひとって思い出を生きようとしているんじゃないかとおもうんですよ。
だから、忘れることは、思い出すことだと、おもうんですよ。
織り目から他人が消えてゆくきのう 草地豊子
タルコフスキー『惑星ソラリス』(1972)。ラスト近く、唐突にクローズアップされ挿入される主人公クリスの耳毛のシーン。昔からずっと謎だったのだが、しかし映画にはこうした不可解な、どこにも回収しえない〈何か〉が充溢している。プラズマ状のソラリスの海によって、クリスの思い出は物質化し、死んだ妻はよみがえる。でも、それは妻であって、妻ではない。記憶と非記憶の往還をただよう〈何か〉でしかないのだ
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