【感想】きりん・キリン・麒麟と変換されてゆくこわかったねとささやきながら なかはられいこ
- 2015/10/19
- 00:30
きりん・キリン・麒麟と変換されてゆくこわかったねとささやきながら なかはられいこ
【ノン、あるいは支配の空しい栄光】
さいきんなかはらさんのこんな句についてかんがえていたんです。
過呼吸の、か、か、過呼吸の鳥/霧/光 なかはられいこ
で、うえにあげた短歌とこの川柳のふたつから考えてみたいのが〈変換〉という恐怖です。
短歌では、「きりん・キリン・麒麟」とナカグロで接がれながら〈変換〉が起こっています。音はおなじでありながら、表記のありかたが〈変〉わってゆくことできりんの〈内実〉も少しずつ変わってゆきます。
川柳のほうでは「鳥/霧/光」とスラッシュで継がれながら〈変換〉されていきます。スラッシュっていうのは、そのうちのどれかという意味でもあるのでたぶんこの句を構造的に分解すると、
過呼吸の、か、か、過呼吸の鳥
過呼吸の、か、か、過呼吸の霧
過呼吸の、か、か、過呼吸の光
となるんだとおもいます。でもこれもひとつの〈変換〉のかたちだとおもうんですね。脚韻で〈 i 〉音を踏みながらも「鳥」「霧」「光」と変質することで、「過呼吸」のありかたが変わっていきます。
言葉っていうのはこういう変換可能性がいつも内在しているわけですよね。でもそれらどれかを抑圧して、たったひとつを選び取って定型に押し込んで短歌なり川柳なりを詠んで/書いている。
でも語り手はその〈抑圧〉を抑圧しないで、あからさまにしようとしている。でもそのふだん抑圧している行為をあからさまにすることで、〈過呼吸〉や〈吃音〉という通常とはちがった形の気息のしかたがあらわれてしまう。
これはそういうふだんわたしたちがなにげなく使っている言葉そのものの〈抑圧〉をひっぱりだそうとしている歌や句なんではないかとおもうんです。
言葉を使うということは決してなにかを気持ちよく表現することでも、内面を吐露することでも、コミュニケーションするということでもなく、いつもそのたびごとにひとつの抑圧のプロセスを経てわたしたちはことばを使っている。ありとある選択的可能性を抑圧したうえでわたしたちはたったひとつの語=言葉をつかっている。
そうした言葉の使用と抑圧をめぐる歌と句なのではないかと。
そしてその抑圧のしかたもこの句や歌の「・(ナカグロ)」や「/(スラッシュ)」にみられるように、実は十把一絡げじゃなくて、繊細にそのつど抑圧の方法が変わっているんではないかともおもうんですよ。
ことばを〈どう〉使うか、ではなく、どう〈使われているか〉という事態そのものを〈口にする〉こと。
よく動くくちびるを見ている 一戸涼子
オリヴェイラ『神曲』(1991)。精神病院で、アダムとイヴ、キリスト、ニーチェ、ラスコーリニコフとソーニャ、カラマーゾフの兄弟、になりきる患者たち。病む、ということは、〈変わる〉ということであり、〈変わる〉ということはそれまでとこれからの〈抑圧〉されたじぶんを浮き彫りにされることになる。もちろん虚構とリアルの〈抑圧〉された往還=交換も
【ノン、あるいは支配の空しい栄光】
さいきんなかはらさんのこんな句についてかんがえていたんです。
過呼吸の、か、か、過呼吸の鳥/霧/光 なかはられいこ
で、うえにあげた短歌とこの川柳のふたつから考えてみたいのが〈変換〉という恐怖です。
短歌では、「きりん・キリン・麒麟」とナカグロで接がれながら〈変換〉が起こっています。音はおなじでありながら、表記のありかたが〈変〉わってゆくことできりんの〈内実〉も少しずつ変わってゆきます。
川柳のほうでは「鳥/霧/光」とスラッシュで継がれながら〈変換〉されていきます。スラッシュっていうのは、そのうちのどれかという意味でもあるのでたぶんこの句を構造的に分解すると、
過呼吸の、か、か、過呼吸の鳥
過呼吸の、か、か、過呼吸の霧
過呼吸の、か、か、過呼吸の光
となるんだとおもいます。でもこれもひとつの〈変換〉のかたちだとおもうんですね。脚韻で〈 i 〉音を踏みながらも「鳥」「霧」「光」と変質することで、「過呼吸」のありかたが変わっていきます。
言葉っていうのはこういう変換可能性がいつも内在しているわけですよね。でもそれらどれかを抑圧して、たったひとつを選び取って定型に押し込んで短歌なり川柳なりを詠んで/書いている。
でも語り手はその〈抑圧〉を抑圧しないで、あからさまにしようとしている。でもそのふだん抑圧している行為をあからさまにすることで、〈過呼吸〉や〈吃音〉という通常とはちがった形の気息のしかたがあらわれてしまう。
これはそういうふだんわたしたちがなにげなく使っている言葉そのものの〈抑圧〉をひっぱりだそうとしている歌や句なんではないかとおもうんです。
言葉を使うということは決してなにかを気持ちよく表現することでも、内面を吐露することでも、コミュニケーションするということでもなく、いつもそのたびごとにひとつの抑圧のプロセスを経てわたしたちはことばを使っている。ありとある選択的可能性を抑圧したうえでわたしたちはたったひとつの語=言葉をつかっている。
そうした言葉の使用と抑圧をめぐる歌と句なのではないかと。
そしてその抑圧のしかたもこの句や歌の「・(ナカグロ)」や「/(スラッシュ)」にみられるように、実は十把一絡げじゃなくて、繊細にそのつど抑圧の方法が変わっているんではないかともおもうんですよ。
ことばを〈どう〉使うか、ではなく、どう〈使われているか〉という事態そのものを〈口にする〉こと。
よく動くくちびるを見ている 一戸涼子
オリヴェイラ『神曲』(1991)。精神病院で、アダムとイヴ、キリスト、ニーチェ、ラスコーリニコフとソーニャ、カラマーゾフの兄弟、になりきる患者たち。病む、ということは、〈変わる〉ということであり、〈変わる〉ということはそれまでとこれからの〈抑圧〉されたじぶんを浮き彫りにされることになる。もちろん虚構とリアルの〈抑圧〉された往還=交換も
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