【感想】心中の生死を分けたコラーゲン 丸山進
- 2015/10/19
- 01:00
心中の生死を分けたコラーゲン 丸山進
【理解と非理解】
以前、丸山さんの句集『アルバトロス』を読んだときに、丸山さんが「あとがき」でご自身がサラリーマン川柳から始められてだんだん詩性川柳も取り込まれていったというようなことをたしか書かれていたのが印象的だったんですよ。
で、わたしは丸山さんの川柳ってそうした〈サラリーマン性=社会派性〉という枠組みと〈詩性=私性〉という枠組みを折衷したところにひとつの魅力があるのではないかともおもっているんです(句集の『アルバトロス』というタイトルが「アルバトロス/あほう鳥」と両価的なネーミングをもっているように)。
で、たとえば仮に丸山進さんの川柳がサラリーマン川柳(社会性)と詩性川柳(私性)を融合された境地にあると考えてみたとして、じゃあサラリーマン川柳ってなんなんだろうと考えたときにサラリーマン川柳っていうのは実は〈システムの理解〉なんじゃないかとおもったんです。で、詩性川柳は〈システムの非理解〉なんじゃないかと。
だからこの〈システムの理解〉と〈システムの非理解〉が融合する場所に丸山さんの川柳があるんじゃないかと。
たとえばうえの心中の句。これはぜんぜんふたりの思惑とは別なスポットからこの心中が描かれているわけです。「死にたい」とか「これだけ愛している」とかはぜんぜん関係なくて、生死のゆきわかれが心のありかたではなくて、からだのコラーゲンの問題になっている。「心中」(こころのなかみ)はぜんぜん関係なくて、「コラーゲン」(からだのなかみ)がすべてを決定づけてしまった。そういう視点のズラし方がとてもおもしろいとおもうんですが、言うなれば、個々人の思惑よりもそれを支えるシステムによって心中が語られているわけです。これが〈システムの理解〉であり〈サラリーマン川柳〉的だとおもうんです。
でもこの句にはサラリーマン川柳的といっただけではすくいとれない〈なにか〉があります。それはわたしたちの内面が思惑を越えて身体によって〈どうこう〉されてしまうことがあるという思想的な問題です。わたしたちがたとえこうあろうとしても、実はその意思や内面をこえて外部から働きかけゆさぶってくるものがある。不可解で圧倒的ななにかがわたしたちを疎外している。そうしたカフカ的なもの。それがこの句の〈システムの非理解〉の詩性だとおもうんですよ。
理論=システムの理解もある。
でも、それだけじゃない。
理論外=システムの非理解もある。つまり、〈なぜ・なんで・どうして〉が解消されえない〈なにか〉がそこにはある。
理論的にはわかるんだけれど、理論的にわかったがゆえに、わからない部分もでてくる。それらをひっくるめて現代川柳として語ること。それが丸山進川柳のひとつの詩学なのではないかとおもうんです。
君のこと理論的には愛せます 丸山進
ディズニーアニメーション『くまのプーさん』(1977)。プーはなんとかシステムを理解し〈象徴的ハチミツ〉を手に入れようとするが、プー自身の「なにもしないこと」をし続けようとする〈私性〉によってシステムの非理解へといつも追い込まれてしまう。でも手に入れられないことは実は手に入れていることでもあるという公案的アニメーションがプーさん
【理解と非理解】
以前、丸山さんの句集『アルバトロス』を読んだときに、丸山さんが「あとがき」でご自身がサラリーマン川柳から始められてだんだん詩性川柳も取り込まれていったというようなことをたしか書かれていたのが印象的だったんですよ。
で、わたしは丸山さんの川柳ってそうした〈サラリーマン性=社会派性〉という枠組みと〈詩性=私性〉という枠組みを折衷したところにひとつの魅力があるのではないかともおもっているんです(句集の『アルバトロス』というタイトルが「アルバトロス/あほう鳥」と両価的なネーミングをもっているように)。
で、たとえば仮に丸山進さんの川柳がサラリーマン川柳(社会性)と詩性川柳(私性)を融合された境地にあると考えてみたとして、じゃあサラリーマン川柳ってなんなんだろうと考えたときにサラリーマン川柳っていうのは実は〈システムの理解〉なんじゃないかとおもったんです。で、詩性川柳は〈システムの非理解〉なんじゃないかと。
だからこの〈システムの理解〉と〈システムの非理解〉が融合する場所に丸山さんの川柳があるんじゃないかと。
たとえばうえの心中の句。これはぜんぜんふたりの思惑とは別なスポットからこの心中が描かれているわけです。「死にたい」とか「これだけ愛している」とかはぜんぜん関係なくて、生死のゆきわかれが心のありかたではなくて、からだのコラーゲンの問題になっている。「心中」(こころのなかみ)はぜんぜん関係なくて、「コラーゲン」(からだのなかみ)がすべてを決定づけてしまった。そういう視点のズラし方がとてもおもしろいとおもうんですが、言うなれば、個々人の思惑よりもそれを支えるシステムによって心中が語られているわけです。これが〈システムの理解〉であり〈サラリーマン川柳〉的だとおもうんです。
でもこの句にはサラリーマン川柳的といっただけではすくいとれない〈なにか〉があります。それはわたしたちの内面が思惑を越えて身体によって〈どうこう〉されてしまうことがあるという思想的な問題です。わたしたちがたとえこうあろうとしても、実はその意思や内面をこえて外部から働きかけゆさぶってくるものがある。不可解で圧倒的ななにかがわたしたちを疎外している。そうしたカフカ的なもの。それがこの句の〈システムの非理解〉の詩性だとおもうんですよ。
理論=システムの理解もある。
でも、それだけじゃない。
理論外=システムの非理解もある。つまり、〈なぜ・なんで・どうして〉が解消されえない〈なにか〉がそこにはある。
理論的にはわかるんだけれど、理論的にわかったがゆえに、わからない部分もでてくる。それらをひっくるめて現代川柳として語ること。それが丸山進川柳のひとつの詩学なのではないかとおもうんです。
君のこと理論的には愛せます 丸山進
ディズニーアニメーション『くまのプーさん』(1977)。プーはなんとかシステムを理解し〈象徴的ハチミツ〉を手に入れようとするが、プー自身の「なにもしないこと」をし続けようとする〈私性〉によってシステムの非理解へといつも追い込まれてしまう。でも手に入れられないことは実は手に入れていることでもあるという公案的アニメーションがプーさん
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