【こわい川柳 第八十九話】眼鏡と逃走-浜知子-
- 2015/10/19
- 07:30
メガネ売場で逃亡を考える 浜知子
【ゴジラの逃走論】
「ど、どうした」ってなる句ですよね。それか、「お、おう」ってなる句です。
この句のおもしろいところは、なぜ〈逃げたいか〉のドラマがまったく語られないことによって、純粋な〈逃げること〉そのもののドラマが前景化しているところです。「メガネ売場」がなにか理由にはなりそうなんだけれども、やっぱりよくわからない。でも「メガネ売場」がメガネをかけることで〈擬態〉ができるところとか、そういうふうにいろいろ考えていくといろんな解釈が生まれてくるかもしれません。
さいきんずっと〈逃げる〉ということについて考えていて、で、ハリウッド版の『ゴジラ』を観ていたときにちょっと思ったのが、〈逃げるドラマ〉のようなものが失われていたんですね。
そこにはいかに凶悪な〈他者〉を軍事兵器で飼い慣らせるかのドラマはあるんだけれども、ゴジラや怪獣にしいたげられたひとたちがそれでも〈発達した交通網〉をぞんぶんに生かして逃げていこうとする日本のゴジラにはあったはずのドラマがない。
日本のゴジラってどういうわけかみんなが〈避難しているシーン〉が名所(例えば名古屋城)とともにえんえんと描かれたりする。それってどういうことなんだろうっていつもみるたびにおもってたんです。または特撮映画の〈おいしい部分〉を引き継いだアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』が「逃げちゃだめだ逃げちゃだめだ」って逃げることが主題化されているけれど、それっていうのは特撮映画の〈逃げる〉系譜の末端としての「逃げちゃだめだ」なんじゃないかとか。
〈逃げる〉って実はすごくたいへんなことなんですよね。たとえば、震災で東京のあちこちの交通がいっせいに麻痺したときに、この東京っていう都市はいっきに密室化するんだな、逃げられなくなるんだなっておもったんです。だからなにかあれば都市っていうのはいっきに密室化するんだけれども、なにかそれを予期していたかのように高度経済成長期のゴジラ映画は〈逃げるドラマ〉を描いていた。それはゴジラと戦うよりもある意味たいへんなことだったんじゃないかとおもうんですよ、都市そのものから逃げ出すことが。
さてここに逃走論がよみがえり 古谷恭一
本多猪四郎『モスラ対ゴジラ』(1964)。こうしてみると、ゴジラから逃げている、というよりも、ゴジラが逃がすことによって国民総避難訓練をしているようにもみえる。名所とともに行うことによって、〈避難〉も国民行事(ナショナル・イヴェント)としてナショナリティをもつのだろうか
ハリウッド版『ゴジラ』。軍事兵器によって敵対する〈よそもの〉を駆逐する
【ゴジラの逃走論】
「ど、どうした」ってなる句ですよね。それか、「お、おう」ってなる句です。
この句のおもしろいところは、なぜ〈逃げたいか〉のドラマがまったく語られないことによって、純粋な〈逃げること〉そのもののドラマが前景化しているところです。「メガネ売場」がなにか理由にはなりそうなんだけれども、やっぱりよくわからない。でも「メガネ売場」がメガネをかけることで〈擬態〉ができるところとか、そういうふうにいろいろ考えていくといろんな解釈が生まれてくるかもしれません。
さいきんずっと〈逃げる〉ということについて考えていて、で、ハリウッド版の『ゴジラ』を観ていたときにちょっと思ったのが、〈逃げるドラマ〉のようなものが失われていたんですね。
そこにはいかに凶悪な〈他者〉を軍事兵器で飼い慣らせるかのドラマはあるんだけれども、ゴジラや怪獣にしいたげられたひとたちがそれでも〈発達した交通網〉をぞんぶんに生かして逃げていこうとする日本のゴジラにはあったはずのドラマがない。
日本のゴジラってどういうわけかみんなが〈避難しているシーン〉が名所(例えば名古屋城)とともにえんえんと描かれたりする。それってどういうことなんだろうっていつもみるたびにおもってたんです。または特撮映画の〈おいしい部分〉を引き継いだアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』が「逃げちゃだめだ逃げちゃだめだ」って逃げることが主題化されているけれど、それっていうのは特撮映画の〈逃げる〉系譜の末端としての「逃げちゃだめだ」なんじゃないかとか。
〈逃げる〉って実はすごくたいへんなことなんですよね。たとえば、震災で東京のあちこちの交通がいっせいに麻痺したときに、この東京っていう都市はいっきに密室化するんだな、逃げられなくなるんだなっておもったんです。だからなにかあれば都市っていうのはいっきに密室化するんだけれども、なにかそれを予期していたかのように高度経済成長期のゴジラ映画は〈逃げるドラマ〉を描いていた。それはゴジラと戦うよりもある意味たいへんなことだったんじゃないかとおもうんですよ、都市そのものから逃げ出すことが。
さてここに逃走論がよみがえり 古谷恭一
本多猪四郎『モスラ対ゴジラ』(1964)。こうしてみると、ゴジラから逃げている、というよりも、ゴジラが逃がすことによって国民総避難訓練をしているようにもみえる。名所とともに行うことによって、〈避難〉も国民行事(ナショナル・イヴェント)としてナショナリティをもつのだろうか
ハリウッド版『ゴジラ』。軍事兵器によって敵対する〈よそもの〉を駆逐する
- 関連記事
スポンサーサイト
- テーマ:読書感想文
- ジャンル:小説・文学
- カテゴリ:こわい川柳-川柳百物語-