【こわい川柳 第九十二話】いやがられる、島に-峯裕見子
- 2015/10/20
- 01:00
まだ少し嫌がる島を引き寄せる 峯裕見子
【ここはサル山じゃない】
ときどき考えているのが、川柳定型というのは〈程度の詩学〉なのではないかということです(これはもしかしたら俳句定型と異なる点かもしれません。俳句では季語が入ってくるので、〈程度〉を入れ込む余地がないから)。
で、程度の詩学ってなんなのかというと、たとえばこの峯さんの句なら、「まだ少し」という部分です。
内容としては「嫌がる島を引き寄せる」だけでもいいはずなのに、〈どれくらい〉嫌がっているかという〈程度〉を叙述しています。
で、わたしはこの〈どれくらい〉というのがけっこう現代川柳のうまみとしてあちこちに見受けられる気がするんですが、なぜこんな程度の詩学が起こるのかというと、たぶんそれは〈定型〉が引き寄せているんじゃないかとおもうんです。
島がいやだいやだといやがっている様子を〈定型〉で描いたときに、まだ島のいやがる〈程度〉を描写できる〈余地〉があった。そのとき、〈定型〉の余地としての5音が「まだ少し」という程度をひっぱりだしてくる。俳句には季語があるけれど、川柳には季語がないために、そのぶん、程度の詩学が発達した。そうかんがえることもできるんじゃないかと。
たとえばこんな「ほぼ」とか。
菜の花よほぼ善人であるために 草地豊子
三谷幸喜『オケピ!』(2003)。三谷幸喜の舞台作品では、それぞれが〈程度〉の役割を与えられそれをこなすことを求められながらも、その〈程度〉から逸脱し周囲と葛藤しはじめるときにとつぜんドラマが動きはじめる。『古畑任三郎』も〈犯罪者〉が古畑との対話によって〈犯罪者〉でいられなくなる物語
【ここはサル山じゃない】
ときどき考えているのが、川柳定型というのは〈程度の詩学〉なのではないかということです(これはもしかしたら俳句定型と異なる点かもしれません。俳句では季語が入ってくるので、〈程度〉を入れ込む余地がないから)。
で、程度の詩学ってなんなのかというと、たとえばこの峯さんの句なら、「まだ少し」という部分です。
内容としては「嫌がる島を引き寄せる」だけでもいいはずなのに、〈どれくらい〉嫌がっているかという〈程度〉を叙述しています。
で、わたしはこの〈どれくらい〉というのがけっこう現代川柳のうまみとしてあちこちに見受けられる気がするんですが、なぜこんな程度の詩学が起こるのかというと、たぶんそれは〈定型〉が引き寄せているんじゃないかとおもうんです。
島がいやだいやだといやがっている様子を〈定型〉で描いたときに、まだ島のいやがる〈程度〉を描写できる〈余地〉があった。そのとき、〈定型〉の余地としての5音が「まだ少し」という程度をひっぱりだしてくる。俳句には季語があるけれど、川柳には季語がないために、そのぶん、程度の詩学が発達した。そうかんがえることもできるんじゃないかと。
たとえばこんな「ほぼ」とか。
菜の花よほぼ善人であるために 草地豊子
三谷幸喜『オケピ!』(2003)。三谷幸喜の舞台作品では、それぞれが〈程度〉の役割を与えられそれをこなすことを求められながらも、その〈程度〉から逸脱し周囲と葛藤しはじめるときにとつぜんドラマが動きはじめる。『古畑任三郎』も〈犯罪者〉が古畑との対話によって〈犯罪者〉でいられなくなる物語
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