【感想】短歌/川柳/俳句といちゃいちゃをめぐって-短詩型文学はどんなふうにいちゃいちゃを語るのか-
- 2015/10/22
- 00:00
秋深しちゃんといちゃいちゃする二人 泉紅実
「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日 俵万智
レジの列に抱きあふ二人春休 榮猿丸
【秋なのでいちゃいちゃしてみよう】
短詩型からみっつの〈いちゃいちゃ〉をあげてみました。
このみっつから、いちゃいちゃのなにがわかるか。
まずひとつ〈いちゃいちゃ〉で大切なのは、それがメモリアルであること、季節のなかのいちゃいちゃであるということです。
泉さんの句の「秋深し」や、俵さんの「七月六日はサラダ記念日」、猿丸さんの「春休」のように、〈いちゃいちゃ〉を構造化しているのは〈季節〉なのです。そうしたベースとしての季節があるからこそ、〈いちゃいちゃ〉がただの〈いちゃいちゃ〉ではなく、〈ちゃんとしたいちゃいちゃ〉として成り立つわけです。
たとえば猿丸さんの句の語り手は「抱きあふ二人」と「春休」を隣り合わせることによって「春休」のなかの〈いちゃいちゃ〉という、ある意味、「なんなのこいつら」という冷めた視線をもちながらも、その〈いちゃいちゃ〉に季感としての趣きも見出しているとおもうんですよね。そしてだからこそ、語る根拠があったわけです。ただのいちゃいちゃではなかったから。
泉さんの句では、「ちゃんと」というのがおもしろいと思うんですね。「いちゃいちゃ」って猿丸さんの句をみてわかるように、当事者たちが他者が見えてないところありますよね、ここレジの列なんだけどね、みたいな。でもこの泉さんの句では当事者たちが「ちゃんと」意識化しながら〈いちゃいちゃ〉しているわけです。
俵さんの歌では「七月六日」という「七夕」からのズレがおもしろいとおもいます。それが七夕だったら、ゴールデンリア充ともいうべき展開になるはずなのに、「七夕」という記念日ではなく、その前日になっています。なぜ、でしょうか。なぜ、《わざわざ》サラダ記念日をつくる必要があったのでしょうか。
たとえば深読みするならば、記念日にいっしょにいられない関係だからこそ、その前日を〈メモリアル化〉しなければならなかった、ということも考えられますよね。なんでもない日を「サラダ記念日」化することによって、〈わたしたちのメモリアル〉をつくること。記念日にはいっしょにいられないから(おそらく相手は記念日には家族といるだろうから)。そういう〈創出されるいちゃいちゃ〉もあるということだとおもうんですよ。わたしたちのためだけの、家族にも、国にも、法にも回収されない「サラダ記念日」。
どうでしたでしょうか、三者三様のいちゃいちゃ。これで、たぶん、この秋、すてきないちゃいちゃができるのではないでしょうか。
わたしはときどき、こう、おもうんです。
わたしたちは、遙かなるいちゃいちゃに向けて、生きているのではないかと。いずれ未来からやってくる偉大ないちゃいちゃのために。
まあ、よくはわからないんだけれど。
言い訳がどんどん樹木化しているね 松原未湖
ダニエル・シュミット『ラ・パロマ』(1974)。たとえば相手が死んでもなお〈いちゃいちゃ〉しようとすればそれは〈文学〉になる。なぜか。〈いちゃいちゃ〉とは充実したコミュニケーションなのだが、〈死者〉とは〈空疎なコミュニケーション〉しかできないからだ。だからみずから〈充実したコミュニケーション〉を起動させるための〈物語〉をつくる必要がある。ある意味、漱石の『こゝろ』も、死者=先生=Kとの〈いちゃいちゃ〉をめぐる話だともいえる
死んでなお〈いちゃいちゃ〉を回避させるための仏教絵画「九相図」。死が物質化してゆくその変遷を描く。
「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日 俵万智
レジの列に抱きあふ二人春休 榮猿丸
【秋なのでいちゃいちゃしてみよう】
短詩型からみっつの〈いちゃいちゃ〉をあげてみました。
このみっつから、いちゃいちゃのなにがわかるか。
まずひとつ〈いちゃいちゃ〉で大切なのは、それがメモリアルであること、季節のなかのいちゃいちゃであるということです。
泉さんの句の「秋深し」や、俵さんの「七月六日はサラダ記念日」、猿丸さんの「春休」のように、〈いちゃいちゃ〉を構造化しているのは〈季節〉なのです。そうしたベースとしての季節があるからこそ、〈いちゃいちゃ〉がただの〈いちゃいちゃ〉ではなく、〈ちゃんとしたいちゃいちゃ〉として成り立つわけです。
たとえば猿丸さんの句の語り手は「抱きあふ二人」と「春休」を隣り合わせることによって「春休」のなかの〈いちゃいちゃ〉という、ある意味、「なんなのこいつら」という冷めた視線をもちながらも、その〈いちゃいちゃ〉に季感としての趣きも見出しているとおもうんですよね。そしてだからこそ、語る根拠があったわけです。ただのいちゃいちゃではなかったから。
泉さんの句では、「ちゃんと」というのがおもしろいと思うんですね。「いちゃいちゃ」って猿丸さんの句をみてわかるように、当事者たちが他者が見えてないところありますよね、ここレジの列なんだけどね、みたいな。でもこの泉さんの句では当事者たちが「ちゃんと」意識化しながら〈いちゃいちゃ〉しているわけです。
俵さんの歌では「七月六日」という「七夕」からのズレがおもしろいとおもいます。それが七夕だったら、ゴールデンリア充ともいうべき展開になるはずなのに、「七夕」という記念日ではなく、その前日になっています。なぜ、でしょうか。なぜ、《わざわざ》サラダ記念日をつくる必要があったのでしょうか。
たとえば深読みするならば、記念日にいっしょにいられない関係だからこそ、その前日を〈メモリアル化〉しなければならなかった、ということも考えられますよね。なんでもない日を「サラダ記念日」化することによって、〈わたしたちのメモリアル〉をつくること。記念日にはいっしょにいられないから(おそらく相手は記念日には家族といるだろうから)。そういう〈創出されるいちゃいちゃ〉もあるということだとおもうんですよ。わたしたちのためだけの、家族にも、国にも、法にも回収されない「サラダ記念日」。
どうでしたでしょうか、三者三様のいちゃいちゃ。これで、たぶん、この秋、すてきないちゃいちゃができるのではないでしょうか。
わたしはときどき、こう、おもうんです。
わたしたちは、遙かなるいちゃいちゃに向けて、生きているのではないかと。いずれ未来からやってくる偉大ないちゃいちゃのために。
まあ、よくはわからないんだけれど。
言い訳がどんどん樹木化しているね 松原未湖
ダニエル・シュミット『ラ・パロマ』(1974)。たとえば相手が死んでもなお〈いちゃいちゃ〉しようとすればそれは〈文学〉になる。なぜか。〈いちゃいちゃ〉とは充実したコミュニケーションなのだが、〈死者〉とは〈空疎なコミュニケーション〉しかできないからだ。だからみずから〈充実したコミュニケーション〉を起動させるための〈物語〉をつくる必要がある。ある意味、漱石の『こゝろ』も、死者=先生=Kとの〈いちゃいちゃ〉をめぐる話だともいえる
死んでなお〈いちゃいちゃ〉を回避させるための仏教絵画「九相図」。死が物質化してゆくその変遷を描く。
- 関連記事
スポンサーサイト
- テーマ:読書感想文
- ジャンル:小説・文学
- カテゴリ:々々の短詩型まとめ