【こわい川柳 第九十六話】もう一度くるさようなら-重森恒雄-
- 2015/10/22
- 01:00
もう一度蹴られる場所に腰かける 重森恒雄
【何度でもするさようなら】
前からちょっと不思議だったのが川柳ってさよならとかお別れの雰囲気を出している句が多いんですね。
で、よく俳句って挨拶の文芸と言われたりもしますよね。すごくそっけない句がとてもよいといわれるのはそういう〈挨拶性〉があるからだとおもうんですね。だって、たとえば、学校や職場で毎日会う人から、こんにちは、を毎日劇的に言われたらいやじゃないですか。挨拶っていうのはそっけなさが大事なのであって、挨拶に私性を込められたら濃厚すぎて毎日できなくなってしまうんですよね、すごく悲しい顔をして「こんにちは」とかね、それはいやでしょう、私性たっぷりの挨拶は。
だから、たとえば私性たっぷりにゆうじんや恋人がとつぜん「さ・よ・う・な・ら」といったら、それほんとにお別れなんですよ。さいごの。
逆に考えると川柳は私性を出してもよい文芸形式だった。季語も入らないから、公の時間でなく、無時間的であり、私の時間でもあるわけです。だから俳句とは違ったかたちで〈さよならの文芸〉〈お別れの文芸〉になっていったんじゃないかとおもうんですよ。
たとえば重森さんのこれも、「もう一度蹴られる」わけですから、身体的にも・関係的にも〈終わり〉に漸近的に近づいていっている句だとおもうんですね。関係の濃度がふかまる、またはこの語り手のポジションでしかありえないという〈私性〉のなかで「蹴られ」ているわけです。
わたしはむかしから、「あとがき」や「小説の終わりの一行」や「さよなら」や「最終回」や「帰りの会」がすきだったんですが、だからこそ川柳が好きになったのかなあとはすこし思ったりしてるんです。川柳をすることによって好きだった「帰りの会」をまだ続けてるんじゃないかって。
だからたとえばこんな句もひとつの〈おおきなさようなら〉、いわば〈大いなるさようなら〉だとおもうんですよ。だってこんなことがとつぜん人生で起きたら、あ、ジ・エンドだな、っておもうでしょう? わたしの人生おわったんだな、って。
みんな去って 全身に降る味の素 中村冨二
ジョン・ヒューストン『ザ・デッド-ダブリン市民より-』(1987年)。ジェイムズ・ジョイスの「死者たち」を映画化したもの。ある日、妻がかつての恋人にさよならできていなかったことを唐突に知る夫。しかも恋人はもう死んでいる。生きている人間とは死んだ人間とはもう「さよなら」は交わせない。死んだ人間は生者のなかにすみつづける。ダブリンに降り続ける雪がその生死の境界をないまぜにするのかのようにラストに降りつづいている
【何度でもするさようなら】
前からちょっと不思議だったのが川柳ってさよならとかお別れの雰囲気を出している句が多いんですね。
で、よく俳句って挨拶の文芸と言われたりもしますよね。すごくそっけない句がとてもよいといわれるのはそういう〈挨拶性〉があるからだとおもうんですね。だって、たとえば、学校や職場で毎日会う人から、こんにちは、を毎日劇的に言われたらいやじゃないですか。挨拶っていうのはそっけなさが大事なのであって、挨拶に私性を込められたら濃厚すぎて毎日できなくなってしまうんですよね、すごく悲しい顔をして「こんにちは」とかね、それはいやでしょう、私性たっぷりの挨拶は。
だから、たとえば私性たっぷりにゆうじんや恋人がとつぜん「さ・よ・う・な・ら」といったら、それほんとにお別れなんですよ。さいごの。
逆に考えると川柳は私性を出してもよい文芸形式だった。季語も入らないから、公の時間でなく、無時間的であり、私の時間でもあるわけです。だから俳句とは違ったかたちで〈さよならの文芸〉〈お別れの文芸〉になっていったんじゃないかとおもうんですよ。
たとえば重森さんのこれも、「もう一度蹴られる」わけですから、身体的にも・関係的にも〈終わり〉に漸近的に近づいていっている句だとおもうんですね。関係の濃度がふかまる、またはこの語り手のポジションでしかありえないという〈私性〉のなかで「蹴られ」ているわけです。
わたしはむかしから、「あとがき」や「小説の終わりの一行」や「さよなら」や「最終回」や「帰りの会」がすきだったんですが、だからこそ川柳が好きになったのかなあとはすこし思ったりしてるんです。川柳をすることによって好きだった「帰りの会」をまだ続けてるんじゃないかって。
だからたとえばこんな句もひとつの〈おおきなさようなら〉、いわば〈大いなるさようなら〉だとおもうんですよ。だってこんなことがとつぜん人生で起きたら、あ、ジ・エンドだな、っておもうでしょう? わたしの人生おわったんだな、って。
みんな去って 全身に降る味の素 中村冨二
ジョン・ヒューストン『ザ・デッド-ダブリン市民より-』(1987年)。ジェイムズ・ジョイスの「死者たち」を映画化したもの。ある日、妻がかつての恋人にさよならできていなかったことを唐突に知る夫。しかも恋人はもう死んでいる。生きている人間とは死んだ人間とはもう「さよなら」は交わせない。死んだ人間は生者のなかにすみつづける。ダブリンに降り続ける雪がその生死の境界をないまぜにするのかのようにラストに降りつづいている
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