【感想】戦争・藤木清子・ボディ-或いは現代俳句と刑事フォイル-
- 2015/10/23
- 06:00
戦死せり三十二枚の歯をそろへ 藤木清子
ひとりゐて刃物のごとき晝とおもふ 〃
しろい晝しろい手紙がこつんと来ぬ 〃
晝寝ざめ戦争厳と聳えたり 〃
【戦争と固形物】
いまNHKBSで『刑事フォイル』がやっていますが、この第二次世界大戦さなかのイギリスに時代設定された『刑事フォイル』の基本的なテーマは、戦争の大量死とそのなかで起こる個人的な殺人事件の〈固有死〉をめぐるものだとおもうんですね。
戦争でたくさんひとが死んでいるんだから、町中で起こる殺人事件なんてどうでもいいじゃないか。
とは、ならないわけです。そこには、〈固有の死〉があるわけだから。それをわすれると、ほんとうに戦争の大量死が〈大量死〉になってしまう。死を微分化するためにもフォイルは町で操作をつづける。
で、殺人事件の〈固有性〉とはなんなのかというとそれはボディ(死体)としての〈固物性=個物性〉なのではないかとおもうんです。〈死〉という概念は〈大量死〉といわれるように、普遍的に概括することができる。でも〈死体〉はそれぞれの固有性をもって死んでいる。胸を刺されていたり、首をしめられていたり、爆死でなくなっていたり、〈大量死体〉といえないように、そこにはかえがたい固物性がある。
この藤木さんの句にも戦争にあらわれたそうした固物性に満ちているんじゃないかとおもうんですよ。
「三十二枚の歯」、「刃物」、「手紙がこつんと来ぬ」、「厳と聳え」。
そういえば鶴彬の有名な句もそうした固物性をひっぱりだしています。
手と足をもいだ丸太にしてかへし 鶴彬
ボディ(死体)から「手と足をも」ぐことで〈固有性=固物性〉を引き剥がし、「丸太」という普通名詞にしておくりかえすこと。〈戦争〉とはそうした個人の死を普遍化し無化するものとしてあったはずです。
いつも〈死〉や〈戦争〉はそうした言説の機制のもんだいとしてもあるのではないかとおもうのです。どういう機制のもとにいま〈僕ら〉は〈僕ら〉なのかという問題。
僕たちには俳句に「未来」を見出すことはできなかったけれど、そこにはいかにも便利なテンプレートとしての「過去」があった。そしてそこから反射的痙攣的に生み出される表現を、あらかじめ用意しておいた「俳句」という名で呼ぶことが、ほとんど唯一といっていいほど確かな「現在」の手ごたえであったような気がするのである。いわば「歴史」を知らないし参画するつもりもないというその白痴的な素地と身ぶりとにおいて、ようやく僕らは決定的に「僕ら」でありえたのかもしれなかった。 外山一機「俳句時評 第73回 ひとつの白痴的継承―宇多喜代子編著『ひとときの光芒 藤木清子全句集』」
アクセル『バベットの晩餐会』(1987)。カトリックの規範に縛られすぎているひとびとに最高の料理をふるまうことで〈味覚〉からの〈固有性=固物性〉を与える物語。味覚とはこの〈わたし〉の問題であり、そしてそれをつくってくれた〈あなた〉との問題である。つまり、固有性から新しい共同意識がうまれるのが〈会食〉ということではないか。
ひとりゐて刃物のごとき晝とおもふ 〃
しろい晝しろい手紙がこつんと来ぬ 〃
晝寝ざめ戦争厳と聳えたり 〃
【戦争と固形物】
いまNHKBSで『刑事フォイル』がやっていますが、この第二次世界大戦さなかのイギリスに時代設定された『刑事フォイル』の基本的なテーマは、戦争の大量死とそのなかで起こる個人的な殺人事件の〈固有死〉をめぐるものだとおもうんですね。
戦争でたくさんひとが死んでいるんだから、町中で起こる殺人事件なんてどうでもいいじゃないか。
とは、ならないわけです。そこには、〈固有の死〉があるわけだから。それをわすれると、ほんとうに戦争の大量死が〈大量死〉になってしまう。死を微分化するためにもフォイルは町で操作をつづける。
で、殺人事件の〈固有性〉とはなんなのかというとそれはボディ(死体)としての〈固物性=個物性〉なのではないかとおもうんです。〈死〉という概念は〈大量死〉といわれるように、普遍的に概括することができる。でも〈死体〉はそれぞれの固有性をもって死んでいる。胸を刺されていたり、首をしめられていたり、爆死でなくなっていたり、〈大量死体〉といえないように、そこにはかえがたい固物性がある。
この藤木さんの句にも戦争にあらわれたそうした固物性に満ちているんじゃないかとおもうんですよ。
「三十二枚の歯」、「刃物」、「手紙がこつんと来ぬ」、「厳と聳え」。
そういえば鶴彬の有名な句もそうした固物性をひっぱりだしています。
手と足をもいだ丸太にしてかへし 鶴彬
ボディ(死体)から「手と足をも」ぐことで〈固有性=固物性〉を引き剥がし、「丸太」という普通名詞にしておくりかえすこと。〈戦争〉とはそうした個人の死を普遍化し無化するものとしてあったはずです。
いつも〈死〉や〈戦争〉はそうした言説の機制のもんだいとしてもあるのではないかとおもうのです。どういう機制のもとにいま〈僕ら〉は〈僕ら〉なのかという問題。
僕たちには俳句に「未来」を見出すことはできなかったけれど、そこにはいかにも便利なテンプレートとしての「過去」があった。そしてそこから反射的痙攣的に生み出される表現を、あらかじめ用意しておいた「俳句」という名で呼ぶことが、ほとんど唯一といっていいほど確かな「現在」の手ごたえであったような気がするのである。いわば「歴史」を知らないし参画するつもりもないというその白痴的な素地と身ぶりとにおいて、ようやく僕らは決定的に「僕ら」でありえたのかもしれなかった。 外山一機「俳句時評 第73回 ひとつの白痴的継承―宇多喜代子編著『ひとときの光芒 藤木清子全句集』」
アクセル『バベットの晩餐会』(1987)。カトリックの規範に縛られすぎているひとびとに最高の料理をふるまうことで〈味覚〉からの〈固有性=固物性〉を与える物語。味覚とはこの〈わたし〉の問題であり、そしてそれをつくってくれた〈あなた〉との問題である。つまり、固有性から新しい共同意識がうまれるのが〈会食〉ということではないか。
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