【感想】✾✿❀❁花束の短歌/川柳を恣意的にまとめてみました✾✿❀❁
- 2014/06/23
- 18:27
花束の拍手のような午前二時 柳本々々
以前から花束と短詩型文学の関係について興味があったんですが、ひとり静さんの次の句をみたときに一応おおまかにまとめてみようと思い立ち、この文章を書いてみることにしました。
花束は優しい手錠かも知れぬ ひとり静
この句では、花束という日常における祝福の枠組みとはすこしうってかわって、花束が優しい拘束具として描かれています。花束が拘束具になりうるのは、日常を逸脱したような巨大さと、また花束が祝福になりうるのも同時にそれが日常的なものではなく、非日常的なもの、ハレのものだからですよね。その、花束のふしぎな両義性を「優しい手錠」として描いている句だと思います。
この拘束具としての花束からたとえば次の花束短歌に眼を向けてみてもいいかもしれません。
花束を抱えて乗ってきた人のためにみんなでつくる空間 木下龍也
花束が否応なしに空間を分節=節合していく瞬間が描かれています。花束とはおもしろいことに、自/他をないまぜにする装置としても働くことがある。空間の拘束具としても機能することがわかってきます。
しかし、その拘束具がはずれたときに、みずからの身体が他者化してあることを見いだしてしまった句もあります。
花束をあげてしまった後の両手 広瀬ちえみ
花束以前/以後という時間軸の導入によって、両手に時間がもたらされ、前・後の位相がもたらされています。両手自体はなにも変わっていないのですが、花束をもっていたこと、あげてしまったことによって、ふだんの両手が異物化し、新たな意味生成がたちあげられるようになっていることを詠んだ句なのではないかと思うんですね。花束はみずからの身体を変える。そんな歌の花束をもうひとつみてみましょう。
椅子に置く花束でしたともだちが生まれ変わると向日葵になる 我妻俊樹
この歌ではどうも花束そのものが身体として詠まれている、ラディカルな身体観が花束を経由することによって展開されているように思います。花束はあげる・わたす・もちこむという関わりそのものによっても意味の編制を行いますが、花束自体が他者として、「ともだち」の生まれ変わりとして機能する場合もある。そんな花束と身体の関係がうかがえるようにも思います。
店員さんの迷いのままに花束が混沌としてゆくのを見てる 兵庫ユカ
兵庫さんの花束短歌は花束が既在のものとしてとらえられてきたこれまでの短詩とはすこしちがって、花束自体の生成過程の異質性をとらえています。花束というのはかんがえてみれば、自然にあるわけではなくて、だれかの取捨選択の結果としてある偶発的で一回的な生成物なわけです。その混沌をとらえた、花束未生短歌です。
また花束はその大きさから、かんたんには所持できないの、だからこそ自らの身体との特殊なかかわり合いを形成します。
さめればいつもあかるき街よ花束を背にくくりつけておくれ、誰か 正岡豊
闘牛士のように瞳をみひらいて抱きとるだろう夜の花束 穂村弘
正岡さんの花束のうたはほとんどがひらがな表記で軽みのある歌になっていながらも(実際この街は「あ・かるき街」です)、そのなかで花束を背にくくりつけようとすることによって花束によって重心が出てくるのが特徴です。この歌の語り手にとって花束はどうも祝福ではなくて、みずからが背負うべき罪とがに近いのではないかとさえ思えてきます。ところがその重心、背負うべき花束とは花束であるため他者に対していつでもひらかれています。そうした語り手の逆説的な意識がこの短歌からはうかがえるように思います。
またその逆をかんがえた場合、穂村さんの短歌は「闘牛士」ということばからわかるように、「夜の花束」を「闘牛」とみたてているのではないかと思うのですが、「花束」は「闘牛」のような圧倒的な他者がわたしに差し向けた意識の束として受け取られているのではないかとおもうのです。
ひきがねをひけば小さな花束が飛びだすような明日をください 笹井宏之
それでも花束はいつでもふいうちの、未来の時間をふくんだ可能態として潜在しています。花束は、本来的に未然形であり、いつでもだれかによって、一回的に生成されることを待っています。
そしてそれは、理解不能な過去の時間に未来を胚胎させるという行為にもなるのではないでしょうか。花束をおいて去るということは。すなわち、
病む心はついに判らぬものだからただ置きて去る冬の花束 岡井隆
以前から花束と短詩型文学の関係について興味があったんですが、ひとり静さんの次の句をみたときに一応おおまかにまとめてみようと思い立ち、この文章を書いてみることにしました。
花束は優しい手錠かも知れぬ ひとり静
この句では、花束という日常における祝福の枠組みとはすこしうってかわって、花束が優しい拘束具として描かれています。花束が拘束具になりうるのは、日常を逸脱したような巨大さと、また花束が祝福になりうるのも同時にそれが日常的なものではなく、非日常的なもの、ハレのものだからですよね。その、花束のふしぎな両義性を「優しい手錠」として描いている句だと思います。
この拘束具としての花束からたとえば次の花束短歌に眼を向けてみてもいいかもしれません。
花束を抱えて乗ってきた人のためにみんなでつくる空間 木下龍也
花束が否応なしに空間を分節=節合していく瞬間が描かれています。花束とはおもしろいことに、自/他をないまぜにする装置としても働くことがある。空間の拘束具としても機能することがわかってきます。
しかし、その拘束具がはずれたときに、みずからの身体が他者化してあることを見いだしてしまった句もあります。
花束をあげてしまった後の両手 広瀬ちえみ
花束以前/以後という時間軸の導入によって、両手に時間がもたらされ、前・後の位相がもたらされています。両手自体はなにも変わっていないのですが、花束をもっていたこと、あげてしまったことによって、ふだんの両手が異物化し、新たな意味生成がたちあげられるようになっていることを詠んだ句なのではないかと思うんですね。花束はみずからの身体を変える。そんな歌の花束をもうひとつみてみましょう。
椅子に置く花束でしたともだちが生まれ変わると向日葵になる 我妻俊樹
この歌ではどうも花束そのものが身体として詠まれている、ラディカルな身体観が花束を経由することによって展開されているように思います。花束はあげる・わたす・もちこむという関わりそのものによっても意味の編制を行いますが、花束自体が他者として、「ともだち」の生まれ変わりとして機能する場合もある。そんな花束と身体の関係がうかがえるようにも思います。
店員さんの迷いのままに花束が混沌としてゆくのを見てる 兵庫ユカ
兵庫さんの花束短歌は花束が既在のものとしてとらえられてきたこれまでの短詩とはすこしちがって、花束自体の生成過程の異質性をとらえています。花束というのはかんがえてみれば、自然にあるわけではなくて、だれかの取捨選択の結果としてある偶発的で一回的な生成物なわけです。その混沌をとらえた、花束未生短歌です。
また花束はその大きさから、かんたんには所持できないの、だからこそ自らの身体との特殊なかかわり合いを形成します。
さめればいつもあかるき街よ花束を背にくくりつけておくれ、誰か 正岡豊
闘牛士のように瞳をみひらいて抱きとるだろう夜の花束 穂村弘
正岡さんの花束のうたはほとんどがひらがな表記で軽みのある歌になっていながらも(実際この街は「あ・かるき街」です)、そのなかで花束を背にくくりつけようとすることによって花束によって重心が出てくるのが特徴です。この歌の語り手にとって花束はどうも祝福ではなくて、みずからが背負うべき罪とがに近いのではないかとさえ思えてきます。ところがその重心、背負うべき花束とは花束であるため他者に対していつでもひらかれています。そうした語り手の逆説的な意識がこの短歌からはうかがえるように思います。
またその逆をかんがえた場合、穂村さんの短歌は「闘牛士」ということばからわかるように、「夜の花束」を「闘牛」とみたてているのではないかと思うのですが、「花束」は「闘牛」のような圧倒的な他者がわたしに差し向けた意識の束として受け取られているのではないかとおもうのです。
ひきがねをひけば小さな花束が飛びだすような明日をください 笹井宏之
それでも花束はいつでもふいうちの、未来の時間をふくんだ可能態として潜在しています。花束は、本来的に未然形であり、いつでもだれかによって、一回的に生成されることを待っています。
そしてそれは、理解不能な過去の時間に未来を胚胎させるという行為にもなるのではないでしょうか。花束をおいて去るということは。すなわち、
病む心はついに判らぬものだからただ置きて去る冬の花束 岡井隆
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