【感想】妹が五月姉が七月出産す 城後朱美
- 2015/10/24
- 00:30
妹が五月姉が七月出産す 城後朱美
誰に打ち明けたらいいのでしょう? 誰に訴えたらいいのでしょう? 誰と一緒に喜んだらいいのでしょう? 人間は誰かをしっかりと愛していなければなりません。 チェーホフ『三人姉妹』
【ひとはみなワーニャ叔父さん】
『おかじょうき』2015年9月号から朱美さんの一句です。
この朱美さんの句のひとつのおもしろさは、クールにシステムのなかの〈わたくしごと〉を描いている点なのではないかとおもうんです。
妹にしてみれば「五月のわたしの出産」、姉にしてみれば「七月のわたしの出産」なんだけど、こうして姉妹のツリー(系統)として並べたとたんに〈出産〉というわたくしごとよりも姉妹としてのシステムが前景化される。
わたしがわたしごとだと思ってしていることも、実はその〈関連づけ〉の仕方によっては、システムのなかのわたくしごとになりうるんだ、だとしたら〈わたし〉ってなに? っていうのがこの句にはあるんじゃないかとおもうんです。
表現作品というのは基本的に〈わたくしごと〉をどのようなツリー=システムのなかで〈関連づけ〉するのか、ということなのではないかとおもうんですよ。
システムだけでもない、わたくしごとだけでもない、極私的なわたくしごとがある一定の視点からツリーとして並べられたときにそれまでみえなかったシステムが露開してしまう。そのとき、わたくしごととシステムがどちらも生きるようなかたちで〈表現〉というものが出てくるんじゃないかと(それは日本の〈近代文学史〉をずっと貫いていた〈想(私の想い)〉と〈実(社会の現実)〉の葛藤の構図にもつながっているのではないかとおもうんですよね)。
たとえば現代短歌にもこんなシステムをめぐる歌があります。
ハンカチを落としましたよああこれは僕が鬼だということですか 木下龍也
あらかじめそのシステムに孕まれた僕の右手が抜く整理券 岡野大嗣
どちらの歌もシステム=全体性をめぐる歌でありながら、「僕」が入っているのが象徴的だとおもうんですよね。システムと僕の関係性そのものを言語化とすること。
たとえば『三人姉妹』の「三人」「姉妹」や、『ワーニャ叔父さん』の「叔父さん」のようにシステムのなかの〈わたし〉をつねに意識しながらドラマをつくっていたのはチェーホフでした。
一体、私たちはどんな一生を送るのかしらね。私たちって、どうなるの? 小説を読んでみれば陳腐なことばかり書いてあって、みんな分かりきったことばかりのように思えるけど、いざ自分が恋をしてみると、はっきりわかるのよ──誰も何一つ分かっちゃいないんだってことが。人はそれぞれ、自分のことは自分で解決しなければならないんだってことがね。 チェーホフ『三人姉妹』
ベルイマン『ある結婚の風景』(1974)。結婚生活についてのインタビューを受け、そのインタビュー記事を活字として読んだしゅんかん、夫婦のなかで〈結婚生活〉のなにかが相対化されてしまう。そしてそれまで〈話し合い〉で解決してきた夫婦は自分たちが二者関係ではなく、システムのなかの二者関係でしかなかったことに気がついてしまう
誰に打ち明けたらいいのでしょう? 誰に訴えたらいいのでしょう? 誰と一緒に喜んだらいいのでしょう? 人間は誰かをしっかりと愛していなければなりません。 チェーホフ『三人姉妹』
【ひとはみなワーニャ叔父さん】
『おかじょうき』2015年9月号から朱美さんの一句です。
この朱美さんの句のひとつのおもしろさは、クールにシステムのなかの〈わたくしごと〉を描いている点なのではないかとおもうんです。
妹にしてみれば「五月のわたしの出産」、姉にしてみれば「七月のわたしの出産」なんだけど、こうして姉妹のツリー(系統)として並べたとたんに〈出産〉というわたくしごとよりも姉妹としてのシステムが前景化される。
わたしがわたしごとだと思ってしていることも、実はその〈関連づけ〉の仕方によっては、システムのなかのわたくしごとになりうるんだ、だとしたら〈わたし〉ってなに? っていうのがこの句にはあるんじゃないかとおもうんです。
表現作品というのは基本的に〈わたくしごと〉をどのようなツリー=システムのなかで〈関連づけ〉するのか、ということなのではないかとおもうんですよ。
システムだけでもない、わたくしごとだけでもない、極私的なわたくしごとがある一定の視点からツリーとして並べられたときにそれまでみえなかったシステムが露開してしまう。そのとき、わたくしごととシステムがどちらも生きるようなかたちで〈表現〉というものが出てくるんじゃないかと(それは日本の〈近代文学史〉をずっと貫いていた〈想(私の想い)〉と〈実(社会の現実)〉の葛藤の構図にもつながっているのではないかとおもうんですよね)。
たとえば現代短歌にもこんなシステムをめぐる歌があります。
ハンカチを落としましたよああこれは僕が鬼だということですか 木下龍也
あらかじめそのシステムに孕まれた僕の右手が抜く整理券 岡野大嗣
どちらの歌もシステム=全体性をめぐる歌でありながら、「僕」が入っているのが象徴的だとおもうんですよね。システムと僕の関係性そのものを言語化とすること。
たとえば『三人姉妹』の「三人」「姉妹」や、『ワーニャ叔父さん』の「叔父さん」のようにシステムのなかの〈わたし〉をつねに意識しながらドラマをつくっていたのはチェーホフでした。
一体、私たちはどんな一生を送るのかしらね。私たちって、どうなるの? 小説を読んでみれば陳腐なことばかり書いてあって、みんな分かりきったことばかりのように思えるけど、いざ自分が恋をしてみると、はっきりわかるのよ──誰も何一つ分かっちゃいないんだってことが。人はそれぞれ、自分のことは自分で解決しなければならないんだってことがね。 チェーホフ『三人姉妹』
ベルイマン『ある結婚の風景』(1974)。結婚生活についてのインタビューを受け、そのインタビュー記事を活字として読んだしゅんかん、夫婦のなかで〈結婚生活〉のなにかが相対化されてしまう。そしてそれまで〈話し合い〉で解決してきた夫婦は自分たちが二者関係ではなく、システムのなかの二者関係でしかなかったことに気がついてしまう
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