【こわい川柳 第九十八話】なめらかなお悔やみ-森田律子-
- 2015/10/27
- 18:40
お悔やみをすらすら言えるのがプリン 森田律子
【プリン文芸としての川柳】
『川柳・北田辺』61号から森田さんの一句です。
やっぱり川柳って〈食べ物〉を通した〈ふらち〉がすごくおもしろいなと思っていてですね、今回の『北田辺』にもおもしろい〈ふとどき〉が食べ物を通してたくさん展開されていたのでちょっとご紹介しましょう。
ひょこひょこついてくるから魚肉ソーセージ 榊陽子
直立歩行で豆腐は行進中 江口ちかる
君の未来はそうねゆで卵 蟹口和枝
オムレツを上手に作る落ちこぼれ 中村幸彦
愛の形高野豆腐は保たれる きゅういち
とめどない悪意ちくわを食べてから 竹井紫乙
カニ食べに行こう13頁5行目 酒井かがり
AM一・○○のトマトだからオレンジ 山口ろっぱ
カレーパンの弟を連れてこい くんじろう
どれもへんてこなかたちで食べ物があらわれていますね。
問題は、どの川柳も〈食べ物〉を〈食べよう〉としていないところにあるとおもうんですよ。
だとすると、川柳の世界っていうのは、アニミズムのような世界のありとある事物がいきいきしたかたちをとりながらも、〈生活〉をしていこうとする世界でもない、ってことだとおもうんですよね。
そこには〈生命〉があるんだけれど〈生活〉がない(食べ物を食べようとしないんですから)。もちろん深層には生活が出てくるかもしれないけれど、〈生活〉から始まるというよりは、〈生命〉から世界がはじまっている。
〈生命〉から世界が始まるってどういうことかといえば、〈わたし〉の生命と〈食べ物〉の生命が等価であり、〈わたし〉がお悔やみを言わなくても〈プリン〉がお悔やみをいってくれる世界です。
そういうプリンと私がいつでも等価交換できる世界を川柳は描いている。
川柳はわたし《で》なくてもいい文芸であり、その意味で、プリン文学といってもいいのではないかとおもうんですよ。川柳のなかでひとはプリンをする。
だから川柳ってなんですか、ときかれた場合、それはプリンです、って答えるかたちがひとつありなのではないか。プリンはみんな好きだし、皿に落としたり底のキャラメルシロップにたどりつく冒険要素もあるし、なにより毎日たべるものなのだから。
だから最後にはプリンが残る。マカロニグラタンのあしあとも。
あしあとがマカロニグラタンである 榊陽子
三谷幸喜『王様のレストラン』(1995)。ミッシェル・サラゲッタはかつて「人生で起こることは、すべて、皿の上で起こる」と述べたが、三谷幸喜の作品には〈食べ物〉はあっても〈生活〉がない。レストランは舞台(皿の上)でありそこは〈私生活〉を演じる場ではないのだ(私生活はいつも後景化されている)。ドラマから〈私生活〉を抜けば前景化されるのは〈虚構の駆け引き〉である。そしてこの生活の抑圧からの〈虚構の駆け引き〉に喜劇的要素があるかもしれない(ボケるということは生活の忘却なのだから。ひとは笑っているとき生活を忘却している)。もちろん殺人も〈虚構の駆け引き〉であり『古畑任三郎』に昇華される
ごちそうが並ぶ北田辺句会
【プリン文芸としての川柳】
『川柳・北田辺』61号から森田さんの一句です。
やっぱり川柳って〈食べ物〉を通した〈ふらち〉がすごくおもしろいなと思っていてですね、今回の『北田辺』にもおもしろい〈ふとどき〉が食べ物を通してたくさん展開されていたのでちょっとご紹介しましょう。
ひょこひょこついてくるから魚肉ソーセージ 榊陽子
直立歩行で豆腐は行進中 江口ちかる
君の未来はそうねゆで卵 蟹口和枝
オムレツを上手に作る落ちこぼれ 中村幸彦
愛の形高野豆腐は保たれる きゅういち
とめどない悪意ちくわを食べてから 竹井紫乙
カニ食べに行こう13頁5行目 酒井かがり
AM一・○○のトマトだからオレンジ 山口ろっぱ
カレーパンの弟を連れてこい くんじろう
どれもへんてこなかたちで食べ物があらわれていますね。
問題は、どの川柳も〈食べ物〉を〈食べよう〉としていないところにあるとおもうんですよ。
だとすると、川柳の世界っていうのは、アニミズムのような世界のありとある事物がいきいきしたかたちをとりながらも、〈生活〉をしていこうとする世界でもない、ってことだとおもうんですよね。
そこには〈生命〉があるんだけれど〈生活〉がない(食べ物を食べようとしないんですから)。もちろん深層には生活が出てくるかもしれないけれど、〈生活〉から始まるというよりは、〈生命〉から世界がはじまっている。
〈生命〉から世界が始まるってどういうことかといえば、〈わたし〉の生命と〈食べ物〉の生命が等価であり、〈わたし〉がお悔やみを言わなくても〈プリン〉がお悔やみをいってくれる世界です。
そういうプリンと私がいつでも等価交換できる世界を川柳は描いている。
川柳はわたし《で》なくてもいい文芸であり、その意味で、プリン文学といってもいいのではないかとおもうんですよ。川柳のなかでひとはプリンをする。
だから川柳ってなんですか、ときかれた場合、それはプリンです、って答えるかたちがひとつありなのではないか。プリンはみんな好きだし、皿に落としたり底のキャラメルシロップにたどりつく冒険要素もあるし、なにより毎日たべるものなのだから。
だから最後にはプリンが残る。マカロニグラタンのあしあとも。
あしあとがマカロニグラタンである 榊陽子
三谷幸喜『王様のレストラン』(1995)。ミッシェル・サラゲッタはかつて「人生で起こることは、すべて、皿の上で起こる」と述べたが、三谷幸喜の作品には〈食べ物〉はあっても〈生活〉がない。レストランは舞台(皿の上)でありそこは〈私生活〉を演じる場ではないのだ(私生活はいつも後景化されている)。ドラマから〈私生活〉を抜けば前景化されるのは〈虚構の駆け引き〉である。そしてこの生活の抑圧からの〈虚構の駆け引き〉に喜劇的要素があるかもしれない(ボケるということは生活の忘却なのだから。ひとは笑っているとき生活を忘却している)。もちろん殺人も〈虚構の駆け引き〉であり『古畑任三郎』に昇華される
ごちそうが並ぶ北田辺句会
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