【お知らせ】「【短詩時評 五人目】北山あさひと戦略としての「なんなんだ」-ひとりひとりは、崖-」『BLOG俳句新空間 第29号』
- 2015/10/30
- 08:10
『 BLOG俳句新空間 第29号』にて「【短詩時評 五人目】北山あさひと戦略としての「なんなんだ」-ひとりひとりは、崖-」という文章を載せていただきました。『BLOG俳句新空間』編集部にお礼申し上げます。ありがとうございました!
お時間のあるときにお読みくだされば、さいわいです。
断崖を見たいと言えばうんと言うこの感情も家になるのか 北山あさひ
宗助の家は横丁を突き当って、一番奥の左側で、すぐの崖下だから、多少陰気ではあるが、その代り通りからはもっとも隔っているだけに、まあ幾分か閑静だろうと云うので、細君と相談の上、とくにそこを択んだのである。 夏目漱石『門』
「夏帽子頭の中に崖ありて」「頭の中には、崖があるのね」「そうや。崖があるんや」 高橋順子『時の雨』
崖、ってなんなんでしょうか。
漱石の『門』の夫婦は崖のしたにひっそりと世界から逃れるようにすんでいましたよね。宮崎駿の『崖の上のポニョ』では崖のうえでポニョたちは暮らしていたけれど、そこにポニョの父の世捨て人フジモトが崖をこえてやってこようとしていました。
あさひさんの短歌の感触ってこの〈崖〉に近いのかなっておもうんですよ。崖ってとくに山とちがってのぼるものではないですよね。こえるものでもない。坂でもないので、くだるものでもない。ときどき、くずれます。あぶないです。積極的にだれかがつくるものではないし、人工崖とかもないでしょう。崖のフィギュアやオブジェもあんまりみません。崖ばかり撮ってる写真もあまりみたことがありません。
でもそうした崖を〈家〉に回収しようとしてる、もしくはそれくらいに外延がひろがった〈家〉を感知しているのがあさひさんの短歌なのかなあとおもうんですね。
かんがえてみると、ポニョの家族もけっこう解体していたわけですね。ポニョも宗介も親を「フジモト」や「リサ」と〈ナチュラル〉に〈呼び捨て〉にしていましたよね。だからあそこにはこれまでとは違ったかたちの「家」のありかたがあるのかもしれない。たとえばポニョが思春期に入ったら、宗介が思春期に入ったらふたりはいっしょにどう暮らしていくのか、「ポニョ、宗介のことだいすき」ということばはどこに回収されていくのか、そういうことが込められたエンディングでしたよね。
ただこの〈崖〉を棲処としている〈家〉はたぶんこれまでもあったし、これからもたくさんでてくるんですよ。ファミリーでも、ホームでもない、概念化しきれない、崖としかいえないような〈家〉がこれからたくさんでてくるとおもう。そしてそれをあさひさんは歌にしている。だから北山あさひの短歌を一度かんがえてみようと思いました。
「本当にありがたいわね。ようやくの事春になって」と云って、晴れ晴れしい眉を張った。宗助は縁に出て長く延びた爪を剪りながら、「うん、しかしまたじき冬になるよ」と答えて、下を向いたまま鋏を動かしていた。 夏目漱石『門』
他人から他人へ渡る体温の私たち陽当たりのいい崖 北山あさひ
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