【感想】イヤホンとインターホンは似てますか 熊谷冬鼓
- 2015/10/30
- 18:13
イヤホンとインターホンは似てますか 熊谷冬鼓
題詠が多い川柳にとって、創作作業は言葉の定義づくりととても似た作業のような気がする Sin『おかじょうき』2015/9
【語りえぬものについても、沈黙しなくていい】
この熊谷さんの句。
「似てない」っていうのは〈正解〉じゃないとおもうんですよ。
イヤホンとインターホンは似てないんじゃないかな、と答えても、語り手は納得しないようにおもう。
逆に「似てる」っていっても、それも〈正解〉じゃない。
たぶん、〈正解〉は、〈似てる/似てない〉を超えた別の場所にありそうだなっておもうんですね。そしてそれは川柳の場所にも近いのかなって。
つまり実はここでは「イヤホン」と「インターホン」が似てるか似てないかは実はどうでもいい。似ていてもいいし、似ていなくてもいい。
そうではなくて、こうしたセンテンスが川柳ではナチュラルなかたちで成立してしまう。そこを問題にしている句なんじゃないかとおもうんですよ。
川柳は定型なので、575でセンテンスが成り立ってしまう。でもかたちだけじゃなくて、もちろんそこにはいつも意味生成の働きがでてくるわけです。だから似てるか似てないかのほうに動こうとする。でも似てるか似てないかのほうに動いてもすぐに意味がないことがわかる。そのどちらでもいいんだってことが。
それよりも大事なのはどうして川柳定型だとこうしたセンテンスが成り立ってしまうんだろうっていうことがこの「似てますか」には問われているようなきがするんです。
でも、ですよ。これがめちゃくちゃなセンテンスだとそれはそれでだめだとおもうんです。たとえば「イヤホン」と「インターホン」ってちょっと似てそうなんですね。え、似てたっけ、とはおもいますよね、いっしゅん。で、それくらいは似ていないとだめなんです。
だけれども、似てるかどうかに意味はない。
そういう問題領域をたちあげながらも、実はその問題領域には解答が内包されていないんだっていう〈センテンス〉を川柳はいつもたちあげているんじゃないかなってきがするんです。
どこに答えがあるのかというと、答えは問いのなかではなくて、問いから派生する外部にある。
でもその外部は問いから派生しているんです。
いったい、どういうことなんでしょうか。
本当のあなたに○を付けなさい 三浦蒼鬼
ウィトゲンシュタインが、人は規則に応じた行動は絶対にとれないが、しかし、規則の外へは絶対的にでられないとした領域 山本哲士『現代思想の方法』
キェシロフスキ『アマチュア』(1979)。カメラで世界を撮ることに執心するあまり主人公の世界は壊れていく。生活も夫婦も職場も。彼は彼自身にとって〈映画〉という最良の枠組みを手に入れたのだが、その〈映画〉という枠組みによって保っていたはずの〈外部〉を喪ってしまった。映画監督をめぐる映画としての、ゴダールやトリュフォー、フェリーニのメタ映画と並びながらも、倫理的に映画監督を問い返すことでそれらとは差違化される映画。
題詠が多い川柳にとって、創作作業は言葉の定義づくりととても似た作業のような気がする Sin『おかじょうき』2015/9
【語りえぬものについても、沈黙しなくていい】
この熊谷さんの句。
「似てない」っていうのは〈正解〉じゃないとおもうんですよ。
イヤホンとインターホンは似てないんじゃないかな、と答えても、語り手は納得しないようにおもう。
逆に「似てる」っていっても、それも〈正解〉じゃない。
たぶん、〈正解〉は、〈似てる/似てない〉を超えた別の場所にありそうだなっておもうんですね。そしてそれは川柳の場所にも近いのかなって。
つまり実はここでは「イヤホン」と「インターホン」が似てるか似てないかは実はどうでもいい。似ていてもいいし、似ていなくてもいい。
そうではなくて、こうしたセンテンスが川柳ではナチュラルなかたちで成立してしまう。そこを問題にしている句なんじゃないかとおもうんですよ。
川柳は定型なので、575でセンテンスが成り立ってしまう。でもかたちだけじゃなくて、もちろんそこにはいつも意味生成の働きがでてくるわけです。だから似てるか似てないかのほうに動こうとする。でも似てるか似てないかのほうに動いてもすぐに意味がないことがわかる。そのどちらでもいいんだってことが。
それよりも大事なのはどうして川柳定型だとこうしたセンテンスが成り立ってしまうんだろうっていうことがこの「似てますか」には問われているようなきがするんです。
でも、ですよ。これがめちゃくちゃなセンテンスだとそれはそれでだめだとおもうんです。たとえば「イヤホン」と「インターホン」ってちょっと似てそうなんですね。え、似てたっけ、とはおもいますよね、いっしゅん。で、それくらいは似ていないとだめなんです。
だけれども、似てるかどうかに意味はない。
そういう問題領域をたちあげながらも、実はその問題領域には解答が内包されていないんだっていう〈センテンス〉を川柳はいつもたちあげているんじゃないかなってきがするんです。
どこに答えがあるのかというと、答えは問いのなかではなくて、問いから派生する外部にある。
でもその外部は問いから派生しているんです。
いったい、どういうことなんでしょうか。
本当のあなたに○を付けなさい 三浦蒼鬼
ウィトゲンシュタインが、人は規則に応じた行動は絶対にとれないが、しかし、規則の外へは絶対的にでられないとした領域 山本哲士『現代思想の方法』
キェシロフスキ『アマチュア』(1979)。カメラで世界を撮ることに執心するあまり主人公の世界は壊れていく。生活も夫婦も職場も。彼は彼自身にとって〈映画〉という最良の枠組みを手に入れたのだが、その〈映画〉という枠組みによって保っていたはずの〈外部〉を喪ってしまった。映画監督をめぐる映画としての、ゴダールやトリュフォー、フェリーニのメタ映画と並びながらも、倫理的に映画監督を問い返すことでそれらとは差違化される映画。
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