【感想】空気なんて信じてゐない蝶が好き 佐藤雄志
- 2015/10/30
- 23:27
空気なんて信じてゐない蝶が好き 佐藤雄志
髪を気にする赤い羽根募金の子 〃
月眩しプールの底に触れてきて 〃
【ふっとした逸脱】
わたしが感じる佐藤さんの句の面白さのひとつに〈主目的〉からふっと逸れたところにある〈なにか〉というのがあるのかなあと思ったんですね。
たとえば〈空気〉だからこその飛ぶ蝶なんだけれども、〈真空状態〉のなかの蝶や、「赤い羽根募金」という〈他者への献身行為〉にありながらも〈対自的〉になる「髪を気にする」。「プールの底」という主目的から、まったく逆の「月」へと意識がふっと向くという、そういう意識がふっと転向するような状態が句にあらわれている。
そこらへんに自分が感じるひとつの面白さがあるのかなって思ったんです(ちなみにこのプールの句は以前「触れてきて」を「触れてきてよ」というふうに〈要請〉としてわたし取ったんですが、作者である佐藤さんからコメントをいただいて、わたしもあらためて見直してみたんですが、ここは「触れてきて/眩し」という〈時間経過〉の「きて」が読みとして自然だと思いました。佐藤さん、ありがとうございました)。
神野紗希さんが佐藤さんの句にふれて「いきいきとした言葉運びに魅力を感じた 」と書いてらっしゃったんですが、言葉の運びによって意識がふっと逸れる状態が〈躍動感〉として佐藤さんの句には描かれているのかなとも思ったんですよ。
まず主目的が「空気なんて信じてゐない」「髪を気にする」「月眩し」がぐっと前面にせりだしてきてから、そこに「蝶」や「赤い羽根募金の子」「底に触れてきて」をあとから〈配置〉することによって意識がふっとゆれる。それら主目的が実はほんらいの主目的ではなかったんだということが後ろの配置でわかる。ふっと逸らされる。
だからなんていうんでしょうか、たとえばもし強引に松尾芭蕉でこの感じをあらわすとするならば、
蛙飛び込む水の音赤い羽根募金
というような感じになると思うんですよ。主目的ではないんだけれども、そうではなかったんだけれども、それが主目的になってしまったというような。「赤い羽根募金」のときにふっと「水の音」に意識が傾注されるかんじ。
そういうふっとゆれる句のダイナミズムにひとつの面白さがあるのかなとおもうんです。
大夏野きのふは星がよく見えた 佐藤雄志
アルトマン『ウェディング』(1978)。ひとつの結婚式をめぐる群像劇だが、誰一人として〈きちんと〉結婚式を遂行している人間はいない。みな、〈別のなにか〉に意識をとられ、その〈別のなにか〉によって、潜在的に抑圧されていた関係がだんだんとせりあがってくる。結婚式は最終的に破綻し、ぜんぜん別のかたちになりそうになりながらも、不思議な偶然の出来事のつらなりによって、暴力的にみながハッピーになるエンディングを迎える。アルトマン映画においては、幸せとは暴力なのである
髪を気にする赤い羽根募金の子 〃
月眩しプールの底に触れてきて 〃
【ふっとした逸脱】
わたしが感じる佐藤さんの句の面白さのひとつに〈主目的〉からふっと逸れたところにある〈なにか〉というのがあるのかなあと思ったんですね。
たとえば〈空気〉だからこその飛ぶ蝶なんだけれども、〈真空状態〉のなかの蝶や、「赤い羽根募金」という〈他者への献身行為〉にありながらも〈対自的〉になる「髪を気にする」。「プールの底」という主目的から、まったく逆の「月」へと意識がふっと向くという、そういう意識がふっと転向するような状態が句にあらわれている。
そこらへんに自分が感じるひとつの面白さがあるのかなって思ったんです(ちなみにこのプールの句は以前「触れてきて」を「触れてきてよ」というふうに〈要請〉としてわたし取ったんですが、作者である佐藤さんからコメントをいただいて、わたしもあらためて見直してみたんですが、ここは「触れてきて/眩し」という〈時間経過〉の「きて」が読みとして自然だと思いました。佐藤さん、ありがとうございました)。
神野紗希さんが佐藤さんの句にふれて「いきいきとした言葉運びに魅力を感じた 」と書いてらっしゃったんですが、言葉の運びによって意識がふっと逸れる状態が〈躍動感〉として佐藤さんの句には描かれているのかなとも思ったんですよ。
まず主目的が「空気なんて信じてゐない」「髪を気にする」「月眩し」がぐっと前面にせりだしてきてから、そこに「蝶」や「赤い羽根募金の子」「底に触れてきて」をあとから〈配置〉することによって意識がふっとゆれる。それら主目的が実はほんらいの主目的ではなかったんだということが後ろの配置でわかる。ふっと逸らされる。
だからなんていうんでしょうか、たとえばもし強引に松尾芭蕉でこの感じをあらわすとするならば、
蛙飛び込む水の音赤い羽根募金
というような感じになると思うんですよ。主目的ではないんだけれども、そうではなかったんだけれども、それが主目的になってしまったというような。「赤い羽根募金」のときにふっと「水の音」に意識が傾注されるかんじ。
そういうふっとゆれる句のダイナミズムにひとつの面白さがあるのかなとおもうんです。
大夏野きのふは星がよく見えた 佐藤雄志
アルトマン『ウェディング』(1978)。ひとつの結婚式をめぐる群像劇だが、誰一人として〈きちんと〉結婚式を遂行している人間はいない。みな、〈別のなにか〉に意識をとられ、その〈別のなにか〉によって、潜在的に抑圧されていた関係がだんだんとせりあがってくる。結婚式は最終的に破綻し、ぜんぜん別のかたちになりそうになりながらも、不思議な偶然の出来事のつらなりによって、暴力的にみながハッピーになるエンディングを迎える。アルトマン映画においては、幸せとは暴力なのである
- 関連記事
スポンサーサイト
- テーマ:読書感想文
- ジャンル:小説・文学
- カテゴリ:々々の俳句感想