【感想】きみはあまり陽気じゃないから納得が追いつくまでやや長く待つ(よそで) 柳谷あゆみ
- 2015/10/31
- 10:50
きみはあまり陽気じゃないから納得が追いつくまでやや長く待つ(よそで) 柳谷あゆみ
きみはとても印象深くはないだから去年は思いだせないでいた 〃
奇蹟的なきみの料理だ。湯気のない。とてもきれいだ。すごくまずいよ。 〃
【長すぎる思いやり、それはエル・ドラド】
以前、川柳カード大会のときに〈短歌〉と〈川柳〉はどんなふうな違いがあるのかという質問をいただいたことがあって、そのときからもよく考えているんですが、柳谷さんの短歌を読んでいたときに〈もったり感の有無〉というのがあるんじゃないかとおもったんです。
わたしが感じている柳谷さんの短歌のおもしろさのひとつに〈もったり感〉というおんがあって、たとえば料理の歌なら「すごくまずいよ」に行き着くまでがとても〈長い〉わけです。でもたぶんすぐに「すごくまずいよ」に行き着いてしまってもまずい。この〈長さ〉としての〈もったり〉が君とわたしの関係性にとっては必然的なきがするんですね。それだけの〈もったり〉したあいだがらというか、言葉を変えれば短歌的関係性というか。
柳谷さんの短歌ってたぶん一読すると、ちょっと語法にふしぎな感じをうけるとおもうんですね(柳谷さん本人はとてもナチュラルな語法だとおっしゃっているんだけれども)。
で、これはあえて〈もったり〉させた長さとしての関係性がひとつ生んでいるのではないかとおもう。
「きみはとても印象深くはない」
これが「きみはとても印象深い」でも「きみの印象はとても薄い」でもそのどちらのかたちもとらないで、「きみはとても印象深/くはない」とさっきの「すごくまずい」みたいに〈否定〉におもむくまでにもったりさせる。
で、こういう新しい否定的言辞の使い方というんでしょうか、大きくみればなんだかきみとわたしの新しい肯定的関係というか、そういうのを〈語法〉として開発してるのが柳谷さんの短歌なんじゃないかっておもうんです。
それはストレートでも、直裁でもない。肯定でも、否定でもない。短歌だけの長さでできる〈もったり〉とした関係性。シンプルなあいだがらでもない。〈わたし〉の〈きみ〉への感情がかんたんにわかるわけでもない。言語化できるわけでもない。もしかしたら語り手もまだわかっていないのかもしれないし、性急に言語化したくないのかもしれない。
とするとです。わたしときみとの思いやりある関係とは実は、〈どれだけ相手を思いやるか〉という情の深さにあるのではなく、それまでなかった〈どんな語法を開発できるか〉というところに実はあるのではないか。それがわたしときみとのあいだがらになるんだろうから。
そんなふうに柳谷さんの短歌の〈迂遠な思いやり〉をみて思ったりもしたのです。
関係性はいつも語法にでてくる。語の強度ではなくて。
きみは汗をかきやすいからやけくそで変な名前の暑い町にいる 柳谷あゆみ
ヘルツォーク『アギーレ/神の怒り』(1972)。ヘルツォークの映画はいつもそれまでの映画がつちかってきた〈語法〉を捨てたうえでそれでも撮るべきものはいったい何が残っているのかと問われるかたちで映画がすすんでいく。アマゾンの奥地で映画も物語もなくなり、最終的にはこわい顔をしたキンスキーとなぜかこわれた船に乗り込んできた無数のお猿さんたちで映画は幕を閉じる。しかしその〈もったり〉が逆にあたらしい
きみはとても印象深くはないだから去年は思いだせないでいた 〃
奇蹟的なきみの料理だ。湯気のない。とてもきれいだ。すごくまずいよ。 〃
【長すぎる思いやり、それはエル・ドラド】
以前、川柳カード大会のときに〈短歌〉と〈川柳〉はどんなふうな違いがあるのかという質問をいただいたことがあって、そのときからもよく考えているんですが、柳谷さんの短歌を読んでいたときに〈もったり感の有無〉というのがあるんじゃないかとおもったんです。
わたしが感じている柳谷さんの短歌のおもしろさのひとつに〈もったり感〉というおんがあって、たとえば料理の歌なら「すごくまずいよ」に行き着くまでがとても〈長い〉わけです。でもたぶんすぐに「すごくまずいよ」に行き着いてしまってもまずい。この〈長さ〉としての〈もったり〉が君とわたしの関係性にとっては必然的なきがするんですね。それだけの〈もったり〉したあいだがらというか、言葉を変えれば短歌的関係性というか。
柳谷さんの短歌ってたぶん一読すると、ちょっと語法にふしぎな感じをうけるとおもうんですね(柳谷さん本人はとてもナチュラルな語法だとおっしゃっているんだけれども)。
で、これはあえて〈もったり〉させた長さとしての関係性がひとつ生んでいるのではないかとおもう。
「きみはとても印象深くはない」
これが「きみはとても印象深い」でも「きみの印象はとても薄い」でもそのどちらのかたちもとらないで、「きみはとても印象深/くはない」とさっきの「すごくまずい」みたいに〈否定〉におもむくまでにもったりさせる。
で、こういう新しい否定的言辞の使い方というんでしょうか、大きくみればなんだかきみとわたしの新しい肯定的関係というか、そういうのを〈語法〉として開発してるのが柳谷さんの短歌なんじゃないかっておもうんです。
それはストレートでも、直裁でもない。肯定でも、否定でもない。短歌だけの長さでできる〈もったり〉とした関係性。シンプルなあいだがらでもない。〈わたし〉の〈きみ〉への感情がかんたんにわかるわけでもない。言語化できるわけでもない。もしかしたら語り手もまだわかっていないのかもしれないし、性急に言語化したくないのかもしれない。
とするとです。わたしときみとの思いやりある関係とは実は、〈どれだけ相手を思いやるか〉という情の深さにあるのではなく、それまでなかった〈どんな語法を開発できるか〉というところに実はあるのではないか。それがわたしときみとのあいだがらになるんだろうから。
そんなふうに柳谷さんの短歌の〈迂遠な思いやり〉をみて思ったりもしたのです。
関係性はいつも語法にでてくる。語の強度ではなくて。
きみは汗をかきやすいからやけくそで変な名前の暑い町にいる 柳谷あゆみ
ヘルツォーク『アギーレ/神の怒り』(1972)。ヘルツォークの映画はいつもそれまでの映画がつちかってきた〈語法〉を捨てたうえでそれでも撮るべきものはいったい何が残っているのかと問われるかたちで映画がすすんでいく。アマゾンの奥地で映画も物語もなくなり、最終的にはこわい顔をしたキンスキーとなぜかこわれた船に乗り込んできた無数のお猿さんたちで映画は幕を閉じる。しかしその〈もったり〉が逆にあたらしい
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