【感想】「無宗教やと信頼されん言うてたわ」「そうなんや」ジョッキの底の、泡。 法橋ひらく
- 2015/10/31
- 23:56
「無宗教やと信頼されん言うてたわ」「そうなんや」ジョッキの底の、泡。 法橋ひらく
「神とは何だろう?」とパヴェウは叔母イレーナに尋ねる。彼女は彼を自分の腕の中に抱き寄せて言う。「どんな感じがする?」「愛を感じる」「そうよ」 キェシロフスキ
精液を手早く拭う たぶん俺、誰にもなにも感謝してない 法橋ひらく
【わたしのほかに神があってはならない。】
うえのふたつのひらくさんの歌には、〈無規定という規定〉があらわれているのかなっておもうんですね。
たとえば、じぶんは「無宗教」という〈無規定〉なんだけれどもいまそのしゅんかん、ふっと「ジョッキの底の、泡」に〈規定〉を受けている。
「誰にもなにも感謝してない」という〈無規定〉のなかで「精液」という〈規定〉の具体的手続きがある。
これってちょっとキェシロフスキが語っていた〈神〉の感じにも近いんじゃないかなともおもうんですね。神っていうものは、わからない。むしろ、無規定だから規定できるものではない。ただ誰かのあたたかい身体をとおしてふっと神が顕現するしゅんかんのようなものはあるかもしれない。あえて〈規定〉をとおしたときに〈無規定〉のようなものにであうことがある。
ひらくさんの歌の「泡」や「精液」っていまここにしかじぶんはいられないし、規定されたじぶんを生きていく以上ひきうけていくしかないじゃんか、っていうことの具体的あらわれだとおもうんです。
でも、それだけじゃない。ひとはそうした規定を受けながらもたとえばゆうじんとのなにげない会話のやりとり(「無宗教やと信頼されん言うてたわ」「そうなんや」)やセクシャルなシーンでのふだんとは違ったチャンネルのなかでのさめた意識(たぶん俺、誰にもなにも感謝してない)のなかで無規定のなかで投げ出されることがある。
それってべつに宗教とはぜんぜん関係ないんだけれども、じぶんだけの私的な個別的な〈宗教的〉しゅんかんってあるんじゃないかとおもうんですよ。規定の無規定/無規定の規定のなかでふっと〈その場かぎりの神〉とであうような特別な・なにげないしゅんかんが。
神様ってだからジョッキの底や手早くぬぐうそのしゅんかんにいるときもあるのかなって、おもうんですね。神さまじゃないんだけれど。でもそのひとが構造的に知覚する超越的な、しゅんかんみたいなものとして。
サボテンに水をあたえる 寂しさに他の呼び名をふたつあたえる 法橋ひらく
ヘルツォーク『フィツカラルド』(1982)。巨大な客船をインディオたちの手を使って(酷使して)山越えさせようとする映画。もちろん船を山越えさせるのは〈狂気〉でしかないが(しかも7ヶ月もかける!)、ただそうした尋常でない設定=規定のなかに次第に無規定としての〈神〉的ななにかがあらわれるのがヘルツォークの映画だともいえる。ひとはなんのためにそこまでするのか。映画さえももうさしおいて。
「神とは何だろう?」とパヴェウは叔母イレーナに尋ねる。彼女は彼を自分の腕の中に抱き寄せて言う。「どんな感じがする?」「愛を感じる」「そうよ」 キェシロフスキ
精液を手早く拭う たぶん俺、誰にもなにも感謝してない 法橋ひらく
【わたしのほかに神があってはならない。】
うえのふたつのひらくさんの歌には、〈無規定という規定〉があらわれているのかなっておもうんですね。
たとえば、じぶんは「無宗教」という〈無規定〉なんだけれどもいまそのしゅんかん、ふっと「ジョッキの底の、泡」に〈規定〉を受けている。
「誰にもなにも感謝してない」という〈無規定〉のなかで「精液」という〈規定〉の具体的手続きがある。
これってちょっとキェシロフスキが語っていた〈神〉の感じにも近いんじゃないかなともおもうんですね。神っていうものは、わからない。むしろ、無規定だから規定できるものではない。ただ誰かのあたたかい身体をとおしてふっと神が顕現するしゅんかんのようなものはあるかもしれない。あえて〈規定〉をとおしたときに〈無規定〉のようなものにであうことがある。
ひらくさんの歌の「泡」や「精液」っていまここにしかじぶんはいられないし、規定されたじぶんを生きていく以上ひきうけていくしかないじゃんか、っていうことの具体的あらわれだとおもうんです。
でも、それだけじゃない。ひとはそうした規定を受けながらもたとえばゆうじんとのなにげない会話のやりとり(「無宗教やと信頼されん言うてたわ」「そうなんや」)やセクシャルなシーンでのふだんとは違ったチャンネルのなかでのさめた意識(たぶん俺、誰にもなにも感謝してない)のなかで無規定のなかで投げ出されることがある。
それってべつに宗教とはぜんぜん関係ないんだけれども、じぶんだけの私的な個別的な〈宗教的〉しゅんかんってあるんじゃないかとおもうんですよ。規定の無規定/無規定の規定のなかでふっと〈その場かぎりの神〉とであうような特別な・なにげないしゅんかんが。
神様ってだからジョッキの底や手早くぬぐうそのしゅんかんにいるときもあるのかなって、おもうんですね。神さまじゃないんだけれど。でもそのひとが構造的に知覚する超越的な、しゅんかんみたいなものとして。
サボテンに水をあたえる 寂しさに他の呼び名をふたつあたえる 法橋ひらく
ヘルツォーク『フィツカラルド』(1982)。巨大な客船をインディオたちの手を使って(酷使して)山越えさせようとする映画。もちろん船を山越えさせるのは〈狂気〉でしかないが(しかも7ヶ月もかける!)、ただそうした尋常でない設定=規定のなかに次第に無規定としての〈神〉的ななにかがあらわれるのがヘルツォークの映画だともいえる。ひとはなんのためにそこまでするのか。映画さえももうさしおいて。
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