【お知らせ】はらだ有彩「11月のヤバい女の子/友達とヤバい女の子」『アパートメント』レビュー
- 2015/11/01
- 21:00
「友達の起源は自分とは関係ない。関係ないところからやって来て今たまたま近くにいる」「本当にそうだ。あたし達は何かをかくすためにお喋りをしてた」
ウェブマガジン『アパートメント』の毎月始めに更新されるはらだ有彩(はりー)さんの「日本のヤバい女の子」。
連載第6回目の今月のはりーさんの文章は「 友達とヤバい女の子」という「ちょうふく山の山姥」伝説と女の子の友情をめぐるエッセイです。
山姥伝説から女の子の友情を引き出してくるはりーさんの視点、とてもおもしろかったです。
はりーさんの文章を読み出してわたしがふっと思い出したのが岡崎京子のマンガ『リバーズエッジ』でした。
なんでひとは生きてるときはそのひとを好きになれなくて、しんでからそのひとのことを好きになる場合があるんだろう。どうしてそのひとが生きてるときとしんでるときでは、あるいはそのひとがいなくなってしまったあと、別れてしまったあとでは交歓のチャンネルが変わってしまうんだろう。
そんなことをすこし思いながら今回のはりーさんのレビューを書いてみました。
ようするにかんたんにいうと、ひとは生きていく過程で、必然的に〈二人連れの孤独〉になっていくんだけれども、それってどういうことなんだろう、ということです。
愛でもない、家族でもない、友情でもない、ひとりでもない。
なんだろう。
友達って、なんなのか。
それは、偶発的な事故なのか。
それとも、ふりかえりざまの握手なのか。
それとも、思いがけなく、めがねを貸しあうことなのか。
「よくみえないけれど」「よくみえないのも、たまにはいいでしょう?」
以下は、わたしが今回『アパートメント』のレビュー欄に書いたレビューです。
※ ※
自分の孤独が、いまや少なくとも二人連れの孤独なんだ ニーチェ、古田島伸知訳「書簡」
彼ら(彼女ら)はそんな場所で出逢う。彼ら(彼女ら)は事故のように出逢う。偶発的な事故として。 岡崎京子『リバーズ・エッジ』
*
今回のはりーさんの文章は〈山姥伝説〉と〈友情〉をめぐるお話でした。
なんか友達って、〈二人連れの孤独〉みたいなところがあるとおもうんですよ。
恋人ではないから、一体感はない。セックスもたぶんしないからそういうズレを〈幻想的〉に修正する機会もない。だからあしたはもう言葉にすることなく別れているかもしれない。でも大きなズレがないぶん、また再会したら、なんでもないかんじで「やあ」って会えるっていう。ずっとおたがいにおたがいが〈友達〉として〈二人連れの孤独〉ではあったんだろうから。
はりーさんが「山姥」の話を引きながら、〈友情〉っていうのは相手に対して「幸あれ」と思い続けることだって今回の文章で書いていらっしゃったんですが、その「~あれ」と祈ることの距離感が友情なんじゃないかとも思うんですよね。
それは決して「いっしょに幸せでいようね」っていう〈共同体感覚〉ではないんですよ。
わたしとあなたはきょういっしょにいても、あしたはべつべつのところで暮らしているかもしれない。わたしが死ぬときだって、あなたはまったく別のところにいて、わたしが死ぬことさえもそのときは気が付かないで楽しく漫画を読んだり手芸をしたりしているかもしれない。
それでもどこかで「幸あれ」とかすかにおもう〈距離感〉と〈連帯〉。
はりーさんが今回の文章で次のことを書かれていて、ちょっとはっとしたんですよ。
《友達の起源は自分とは関係ない。関係ないところからやって来て、今たまたま近くにいる。その出自に自分が関与していないものと、ほんの短い時間、接触する》
このはりーさんの言葉を読んだときに、わたしは急に岡崎京子の『リバーズ・エッジ』を思い出したんですよ。
あなたはわたしの起源ではないし、わたしはあなたの起源でもない。そこにはひとつの河川が流れているだけで、生も死も愛も性も暴力も憎しみも噂も嫉妬も友情もその河原(リバーズ・エッジ)で明滅しては流れ去っていくだろう。
でも、それでも、わたしとあなたはばらばらになりながらもおたがいに「幸あれ」っておもう。
ふたりで、ふたりだけのなにかに気づいて、ふたりだけのなにかに気がつかないようにするために。
本当にそうだ/あたし達は何かをかくすために/お喋りをしてた/ずっと/何かを言わないで/すますために/えんえんと放課後/お喋りをしていたのだ 岡崎京子『リバーズ・エッジ』
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