【感想】も、も、ももを/も、もいでもらふ/も、もちろん も、問題ない/も、も、桃だもの 小池純代
- 2015/11/02
- 00:13
も、も、ももを
も、もいでもらふ
も、もちろん も、問題ない
も、も、桃だもの
小池純代
【白い言葉】
定型ってじつは言語をなめらかにするための装置なんじゃなくて、ことばをつっかえさせるためにあるんじゃかいかっていうのがこの小池さんの歌なんじゃないかなっておもうんですね。
定型って音律だから、たぶん、いかに音やリズムをうつくしくなめらかに格調高く出力できるかっていう方向をもたされがちなきもするんだけれど、いやそうではなくて、じつは定型っていうのはふだん使っている語法や音律をつっかえさせるためにあるんじゃないか。そういうのを考える装置として定型はあるんじゃないかとおもうんです。
そもそもふだん無意識につかっていることばを、意識下におこうとする定型っていうのは〈暴力的〉な装置だともおもうんです。でも定型にすっとあてはめてしまうとその〈暴力〉を忘却することになる。つまり、忘却という暴力で、暴力的装置をわすれるという二重の暴力をじつはひとは定型詩において行使していることもあるのではないか。
だから、こんなふうに定型のなかでことばがつっかえてしまう状況をあからさまに出すことによって可視化されるものがあるんじゃないかともおもうんですよ。
たとえばわたしたち(わたし)はすごく大事な場面になればなるほど、ことばがつっかえ、まわらず、混淆することがあるけれど、そうしたことばをあえてつっかえさせることによって定型の暴力性を考えるということがあるのではないか。
ことばの純度=白さとはそもそも《どこ》にあるのか。
ボ、ボクはキ、キヨラカに外道 普川素床
キェシロフスキ『トリコロール 白の愛』(1994)。主人公のカロルがフランス語文法を寝ころびながら勉強している印象的なシーンがあるのだが、この映画では〈愛〉のありかたが原子的に還元されると同時に、フランス人の元妻との間で言葉もまた元素的に還元されていく。つまり、ふたりのうしなわれた愛とともに、愛だけでなく言葉や身体も解体されてゆくのだ(身体は性的不能として現れる)。ラストは〈沈黙〉のなかで、ふたりがみつめあいながら、オーディエンスにはなにを言っているかわからないようなかたちで刑務所の窓越しに〈手話〉が行われる。つまり、そうした言葉がゼロまで解体されたところからもういちどふたりの愛の〈公平さ〉が構築される地点にふたりは立ったのだ。だとしたら、愛にとっても言葉がつっかえることは大事なのではないか。言葉の白さから、言葉のゼロから、愛の白さから始めること。
も、もいでもらふ
も、もちろん も、問題ない
も、も、桃だもの
小池純代
【白い言葉】
定型ってじつは言語をなめらかにするための装置なんじゃなくて、ことばをつっかえさせるためにあるんじゃかいかっていうのがこの小池さんの歌なんじゃないかなっておもうんですね。
定型って音律だから、たぶん、いかに音やリズムをうつくしくなめらかに格調高く出力できるかっていう方向をもたされがちなきもするんだけれど、いやそうではなくて、じつは定型っていうのはふだん使っている語法や音律をつっかえさせるためにあるんじゃないか。そういうのを考える装置として定型はあるんじゃないかとおもうんです。
そもそもふだん無意識につかっていることばを、意識下におこうとする定型っていうのは〈暴力的〉な装置だともおもうんです。でも定型にすっとあてはめてしまうとその〈暴力〉を忘却することになる。つまり、忘却という暴力で、暴力的装置をわすれるという二重の暴力をじつはひとは定型詩において行使していることもあるのではないか。
だから、こんなふうに定型のなかでことばがつっかえてしまう状況をあからさまに出すことによって可視化されるものがあるんじゃないかともおもうんですよ。
たとえばわたしたち(わたし)はすごく大事な場面になればなるほど、ことばがつっかえ、まわらず、混淆することがあるけれど、そうしたことばをあえてつっかえさせることによって定型の暴力性を考えるということがあるのではないか。
ことばの純度=白さとはそもそも《どこ》にあるのか。
ボ、ボクはキ、キヨラカに外道 普川素床
キェシロフスキ『トリコロール 白の愛』(1994)。主人公のカロルがフランス語文法を寝ころびながら勉強している印象的なシーンがあるのだが、この映画では〈愛〉のありかたが原子的に還元されると同時に、フランス人の元妻との間で言葉もまた元素的に還元されていく。つまり、ふたりのうしなわれた愛とともに、愛だけでなく言葉や身体も解体されてゆくのだ(身体は性的不能として現れる)。ラストは〈沈黙〉のなかで、ふたりがみつめあいながら、オーディエンスにはなにを言っているかわからないようなかたちで刑務所の窓越しに〈手話〉が行われる。つまり、そうした言葉がゼロまで解体されたところからもういちどふたりの愛の〈公平さ〉が構築される地点にふたりは立ったのだ。だとしたら、愛にとっても言葉がつっかえることは大事なのではないか。言葉の白さから、言葉のゼロから、愛の白さから始めること。
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