【短歌】〈不安〉と毎日歌壇(毎日新聞・毎日歌壇2015年11月2日・加藤治郎/米川千嘉子 選)
- 2015/11/02
- 08:00
今回の加藤治郎さん選の毎日歌壇、どことなく〈不安感〉が基調にあったのかな、ってちょっと思いました。
北瀬さんのこんな特選歌から始まっていました。
トーストの四角い角にかじりつくときにもよぎるすこしの不安 北瀬昏
【加藤治郎さんの選評】トーストの角が目に付く。日常の微妙な裂け目である。不安から逃れることはできないのか。
この加藤さんが書かれた選評の、ひとは生きていく上で〈不安から逃れることはできないのか〉っていうのが今回の毎日歌壇の基調音になっていたのかなあとおもったんです。たとえば、
スーパーの店内で聴くニルヴァーナ何かの罪を償っている 大塩久恵
シャンプーと会計の時を除いては鏡の僕と話す美容師 近藤きつね
日曜の夜九時過ぎのホームには蛾と恋人たちと俺だけ 大木はち
「人がいなくても、水が流れることがあります」は怪談である/怪談でない 柳本々々
(毎日新聞・毎日歌壇2015年11月2日・加藤治郎 選)
スーパーの店内で、美容院で、駅のホームで、トイレで、なにか漠然と構造的不安を感じる語り手たち。
そういうそれぞれの〈場〉によってめいめいに構造化された不安をかんじているというのが大事なのかなともおもったんですね。
つまり、不安はやってくるものであると同時に、そのときその場所で生きられるものでもあるのだと。
だからある意味で、不安の享受が、じぶんと社会や生活の枠組みとの接点だったりもするのではないか。
たとえば、トーストにかじりつくときの不安っていうのは、食べて生きることや生活すること、朝食をたべてこれから働くこととか、あるいは四角くととのえられたシステムのなかでこれからそのシステムのなかの不確定なわたしとして生きることといったような。
そういう不安っていうのは実はそれぞれの不安がその場と噛み合って生起しているというのをあらわしているようにおもうんですね。
不安から逃れることはできないかもしれないけれど、短歌ということばの構造にうつしかえることで、すこしだけ可視化できるかもしれない。それがいいことなのかどうかはわからないけれど、生きていくうえで、ささやかだけれど役に立つことになるかもしれない。短歌が。
生きてゆく根拠はたぶん曖昧でそれでもそこに升目のある日 柳本々々
(毎日新聞・毎日歌壇2015年11月2日・米川千嘉子 選)
ウディ・アレン『ウディ・アレンの重罪と軽罪』(1989)。基本的にウディ・アレンの映画は〈不安〉が物語の駆動力になっている。これからどれだけ生きられるのか、なんのためにわたしたちは生きるのか、ひとと恋愛をするのか、セックスをするのか、なんのために表現するのか、罪をおかすのか、ひとを傷つけるのか、殺すのか、神はいるのか、自殺はよくないのか、文学や映画に意味はあるのか、楽しいだけやきもちいいだけでいいのか、しかし真摯に誠実に生きることになんの意味があるのか、そんなことばかりかんがえるこのわたしとはいったい誰なのか。ウディ・アレン映画をみていて思うのはそういう〈不安〉をあえて生き抜くときに社会や他者と交通する場が生起していくのではないかということだ。実は〈不安〉とは社会がわたしにアクセスしてくるときのひとつの社会からの発話なのではないか。自己内対話だけで完結できないことを知ったときひとは〈不安〉になる。〈不安〉によってはじめてじぶんがじぶんからはみだしていくのを感じるのだ
おそらく人間は一生懸命に努力することによってシンプルなテーマから喜びを発見します。例えば家族や仕事から。そして希望から。 ウディ・アレン『ウディ・アレンの重罪と軽罪』
北瀬さんのこんな特選歌から始まっていました。
トーストの四角い角にかじりつくときにもよぎるすこしの不安 北瀬昏
【加藤治郎さんの選評】トーストの角が目に付く。日常の微妙な裂け目である。不安から逃れることはできないのか。
この加藤さんが書かれた選評の、ひとは生きていく上で〈不安から逃れることはできないのか〉っていうのが今回の毎日歌壇の基調音になっていたのかなあとおもったんです。たとえば、
スーパーの店内で聴くニルヴァーナ何かの罪を償っている 大塩久恵
シャンプーと会計の時を除いては鏡の僕と話す美容師 近藤きつね
日曜の夜九時過ぎのホームには蛾と恋人たちと俺だけ 大木はち
「人がいなくても、水が流れることがあります」は怪談である/怪談でない 柳本々々
(毎日新聞・毎日歌壇2015年11月2日・加藤治郎 選)
スーパーの店内で、美容院で、駅のホームで、トイレで、なにか漠然と構造的不安を感じる語り手たち。
そういうそれぞれの〈場〉によってめいめいに構造化された不安をかんじているというのが大事なのかなともおもったんですね。
つまり、不安はやってくるものであると同時に、そのときその場所で生きられるものでもあるのだと。
だからある意味で、不安の享受が、じぶんと社会や生活の枠組みとの接点だったりもするのではないか。
たとえば、トーストにかじりつくときの不安っていうのは、食べて生きることや生活すること、朝食をたべてこれから働くこととか、あるいは四角くととのえられたシステムのなかでこれからそのシステムのなかの不確定なわたしとして生きることといったような。
そういう不安っていうのは実はそれぞれの不安がその場と噛み合って生起しているというのをあらわしているようにおもうんですね。
不安から逃れることはできないかもしれないけれど、短歌ということばの構造にうつしかえることで、すこしだけ可視化できるかもしれない。それがいいことなのかどうかはわからないけれど、生きていくうえで、ささやかだけれど役に立つことになるかもしれない。短歌が。
生きてゆく根拠はたぶん曖昧でそれでもそこに升目のある日 柳本々々
(毎日新聞・毎日歌壇2015年11月2日・米川千嘉子 選)
ウディ・アレン『ウディ・アレンの重罪と軽罪』(1989)。基本的にウディ・アレンの映画は〈不安〉が物語の駆動力になっている。これからどれだけ生きられるのか、なんのためにわたしたちは生きるのか、ひとと恋愛をするのか、セックスをするのか、なんのために表現するのか、罪をおかすのか、ひとを傷つけるのか、殺すのか、神はいるのか、自殺はよくないのか、文学や映画に意味はあるのか、楽しいだけやきもちいいだけでいいのか、しかし真摯に誠実に生きることになんの意味があるのか、そんなことばかりかんがえるこのわたしとはいったい誰なのか。ウディ・アレン映画をみていて思うのはそういう〈不安〉をあえて生き抜くときに社会や他者と交通する場が生起していくのではないかということだ。実は〈不安〉とは社会がわたしにアクセスしてくるときのひとつの社会からの発話なのではないか。自己内対話だけで完結できないことを知ったときひとは〈不安〉になる。〈不安〉によってはじめてじぶんがじぶんからはみだしていくのを感じるのだ
おそらく人間は一生懸命に努力することによってシンプルなテーマから喜びを発見します。例えば家族や仕事から。そして希望から。 ウディ・アレン『ウディ・アレンの重罪と軽罪』
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