【こわい川柳 第九十九話】だまるのがこわい―いわさき楊子―
- 2015/11/02
- 01:00
黙っていると点線で囲まれる いわさき楊子
【こわい川柳はほんとうはなにをこわがっていたのか】
これまで川柳がどんなふうにふしぎな空間を語り出すかに注目してこの九十九話まできたんですが、もう九十九話まできたのだから、さいごは黙ってみたらどうなるのか、ということでこのいわさきさんの句を紹介してみることにしました。
あらためて考えてみるとふしぎなことなんですが、定型って実は沈黙が許されないんですね。
定型に沿う以上は、語り出さなければならないんですよ。
上5は黙ってようかな、というのはなかなか許されない。もちろん、黙ってる川柳もありますよ。
錫 鉛 銀 川上日車
これはたぶん定型のなかで黙ろうとしてる稀有の例なきがするんです。
ただ通常はこうしない。定型ってつねになにかを語り出せってなかば暴力的に誘いかけてくるわけですよね。語ることがあるんだろう、というふうに。
「黙っていると点線で囲まれる」っていうのは、これはわたしの〈積極的読み〉なんだけれども、〈定型恐怖〉なのかなともおもうんですよ。黙ってると、それでも定型がやってくる。点線で囲まれるっていうのは、分節化されるということです。そういう〈わたし〉に分節の強制がやってくる。点線だから、実線ではなく、なかば〈心理的〉に、みえる/みえないの半ばでやってくる。
そういう定型恐怖、しゃべりださなければいけない恐怖、そういう視点からこの楊子さんの句をみてみるのもありなのかなあとおもうんですね。もちろん、社会詠や時事詠として読むことも可能です。ひとは往々にして発言しなければならない、でなければ勝手に分節化され、きがつけばいろんな法のなかに追い込まれている場合もあるから。
でも、あえてこの九十九話で、川柳にとっていちばんこわいのは実は定型だったんじゃないかということをかんがえてみたいんです。
こわい川柳がこわがっていたのは、実は定型そのものだったんじゃないか。定型恐怖というものが川柳にはあるんじゃないか。
川柳は、川柳自身を、こわがっていたんじゃないか。
中八がそんなに憎いかさあ殺せ 川合大祐
ソクーロフ『ストーン』(1992)。亡霊としてやってきたチェーホフと青年との対話にならない対話。ソクーロフの映画では生の側に死が割り込むかたちでやってくるが、生も死もどちらも相対化も批評もしあわない。それらはもともといったいのものであり、鏡の両面のようなそんざいだから。だからなによりもソクーロフの映画でこわいのは、《すべてのあなたはわたしだった》と気が付いてしまうことである。ニーチェではないかたちで。即物的なゆいいつむにのかたちで。
【こわい川柳はほんとうはなにをこわがっていたのか】
これまで川柳がどんなふうにふしぎな空間を語り出すかに注目してこの九十九話まできたんですが、もう九十九話まできたのだから、さいごは黙ってみたらどうなるのか、ということでこのいわさきさんの句を紹介してみることにしました。
あらためて考えてみるとふしぎなことなんですが、定型って実は沈黙が許されないんですね。
定型に沿う以上は、語り出さなければならないんですよ。
上5は黙ってようかな、というのはなかなか許されない。もちろん、黙ってる川柳もありますよ。
錫 鉛 銀 川上日車
これはたぶん定型のなかで黙ろうとしてる稀有の例なきがするんです。
ただ通常はこうしない。定型ってつねになにかを語り出せってなかば暴力的に誘いかけてくるわけですよね。語ることがあるんだろう、というふうに。
「黙っていると点線で囲まれる」っていうのは、これはわたしの〈積極的読み〉なんだけれども、〈定型恐怖〉なのかなともおもうんですよ。黙ってると、それでも定型がやってくる。点線で囲まれるっていうのは、分節化されるということです。そういう〈わたし〉に分節の強制がやってくる。点線だから、実線ではなく、なかば〈心理的〉に、みえる/みえないの半ばでやってくる。
そういう定型恐怖、しゃべりださなければいけない恐怖、そういう視点からこの楊子さんの句をみてみるのもありなのかなあとおもうんですね。もちろん、社会詠や時事詠として読むことも可能です。ひとは往々にして発言しなければならない、でなければ勝手に分節化され、きがつけばいろんな法のなかに追い込まれている場合もあるから。
でも、あえてこの九十九話で、川柳にとっていちばんこわいのは実は定型だったんじゃないかということをかんがえてみたいんです。
こわい川柳がこわがっていたのは、実は定型そのものだったんじゃないか。定型恐怖というものが川柳にはあるんじゃないか。
川柳は、川柳自身を、こわがっていたんじゃないか。
中八がそんなに憎いかさあ殺せ 川合大祐
ソクーロフ『ストーン』(1992)。亡霊としてやってきたチェーホフと青年との対話にならない対話。ソクーロフの映画では生の側に死が割り込むかたちでやってくるが、生も死もどちらも相対化も批評もしあわない。それらはもともといったいのものであり、鏡の両面のようなそんざいだから。だからなによりもソクーロフの映画でこわいのは、《すべてのあなたはわたしだった》と気が付いてしまうことである。ニーチェではないかたちで。即物的なゆいいつむにのかたちで。
- 関連記事
スポンサーサイト
- テーマ:読書感想文
- ジャンル:小説・文学
- カテゴリ:こわい川柳-川柳百物語-