【感想】歌、卵、ル、虹、凩、好きな字を拾ひ書きして世界が欠ける 荻原裕幸
- 2014/06/24
- 06:31
歌、卵、ル、虹、凩、好きな字を拾ひ書きして世界が欠ける 荻原裕幸
【欠けた世界がぱんぱんに膨らんでいく】
とても好きな歌なのですが、じぶんの「好き」を言語化してみるために、あえて誤読をおそれずに冒険的深読みをしてみたいとおもいます。
「好きな字を拾ひ書き」したらどうして語り手にとって「世界が欠け」てしまったんだろう、というのがかんがえてみたいテーマです。
これは、あえて冒険的に読んでみようとおもうんですが、この歌の語り手の好きな字がちょうど五文字であること、そして世界という基幹的なものが欠けてしまったことに注目してみたいとおもいます。
もしかしたら、この五文字のなかには、「ア、イ、ウ、エ、オ」がそれぞれのなかに隠されているのではないかというのが今回の冒険です。
「歌」は、「欠」のなかに「ア」が。「卵」の中には(少し苦しいですが)「イ」の形が。「虹」のなかには「エ」が。「凩」は、「木」のなかに「オ」が。
問題は、「ル」なんですよね。どうあがいてもこの中には「ウ」が入っていない。あえて音節として割り出せば、母音としての「ウ」は入っていますが、すこし変則的です。でもこの「ル」だけは漢字でなかったことも気になってきます。
ですが、あえてその変則としての「ル」に実はこのうたのポイントがあったのではないかというのが今回のさらなる冒険です。意味の縫い目をこの「ル」が変転させる役割を盛っているのではないか(そういえば、この「ル」はクッションの綴じ目のようにちょうど真ん中に位置しています。「クッションの綴じ目」とは、ラカンのことばですが、記号表現と記号内容を縫い合わせ意味を決定する結節点、のような概念だったとおもいます)。
で、わたしがかんがえたのは、母音五音をひそかに/無意識に拾い書きした瞬間、語り手にとっての世界は欠けるのですが、でも語り手は、「ウ」だけは回避したということなのではないかと思うんですね。「ウ」という母音はそもそも「ある(終止形:あり)」という動詞を抜いたすべての終止形の終わりに位置する母音です。実際語り手が「欠ける」と結語しているように、「る」としてのウ音で終わっています。
だから語り手はこの「ル」であえてほころびをつくることによって、母音を拾い集めようとしつつも未遂したのではないかとおもうのです。「ル」で未遂したということ。すなわちこれは、この「欠ける」という「ル」で終わった歌そのものも未遂したのではないかと思うのです。
これは語り手の言明をそのまま信じれば、「好きな字を拾ひ書きし」たことで「世界」が「欠ける」ことをうたったうたです。けれども、その行為そのものにひとつの「穴」が、ほころびがあった。拾い書きしつくそうとしても、しつくせない世界があった。その穴から、そのほころびから、語り手にとっての「満ちた世界」が、未遂の世界として、またあふれだしてくるようにわたしは思うんですね。「ル」だけ、変則にしたのはそのためだったのではないかとわたしはおもうんです。語り手は、ぎゃくに、無意識に、世界を欠きながらも、そのことによって、世界を満たし、あふれさせてもいるのではないかと。
これはかなりの深読みで、誤読だとはおもっているんですが、わたしはこのうたを初めてみたときに、直観として、「なんで世界が欠けてるうたなのに、こんなになにかが豊かな感じがしてくるんだろう」とおもったんですね。それは数年前に図書館の地下でそうおもったんですが、数年たってもしいまじぶんがあえてそのときのきもちを拾い書きするように言語化してみるならば、こうなるのかな、とおもいました。もちろん、これがわたしの世界の欠き方であり、わたしもその拾い書きによって、未遂し、挫折しているわけです。穴からは、もっともっと言語化不可能なこの歌の意味生成があふれてきます。
でも、ひとはときに、未遂して、まけいくさだとわかっていても、あえて言語化し、不可逆のながれにみをおかなければならないときもあるのではないだろうか、とときどきおもいます。
おそらく、この語り手も、拾い書きした瞬間に、逆説的にあふれる世界を感じていたのではないだろうか、とおもったりもします。それは、語り手が「ウの回避」として避けた、終わりのない、終止形のない豊穣な世界なのではなかったかと。
ここにゐる、ここを世界の静脈としてみづいろの時間のなかへ 荻原裕幸
【欠けた世界がぱんぱんに膨らんでいく】
とても好きな歌なのですが、じぶんの「好き」を言語化してみるために、あえて誤読をおそれずに冒険的深読みをしてみたいとおもいます。
「好きな字を拾ひ書き」したらどうして語り手にとって「世界が欠け」てしまったんだろう、というのがかんがえてみたいテーマです。
これは、あえて冒険的に読んでみようとおもうんですが、この歌の語り手の好きな字がちょうど五文字であること、そして世界という基幹的なものが欠けてしまったことに注目してみたいとおもいます。
もしかしたら、この五文字のなかには、「ア、イ、ウ、エ、オ」がそれぞれのなかに隠されているのではないかというのが今回の冒険です。
「歌」は、「欠」のなかに「ア」が。「卵」の中には(少し苦しいですが)「イ」の形が。「虹」のなかには「エ」が。「凩」は、「木」のなかに「オ」が。
問題は、「ル」なんですよね。どうあがいてもこの中には「ウ」が入っていない。あえて音節として割り出せば、母音としての「ウ」は入っていますが、すこし変則的です。でもこの「ル」だけは漢字でなかったことも気になってきます。
ですが、あえてその変則としての「ル」に実はこのうたのポイントがあったのではないかというのが今回のさらなる冒険です。意味の縫い目をこの「ル」が変転させる役割を盛っているのではないか(そういえば、この「ル」はクッションの綴じ目のようにちょうど真ん中に位置しています。「クッションの綴じ目」とは、ラカンのことばですが、記号表現と記号内容を縫い合わせ意味を決定する結節点、のような概念だったとおもいます)。
で、わたしがかんがえたのは、母音五音をひそかに/無意識に拾い書きした瞬間、語り手にとっての世界は欠けるのですが、でも語り手は、「ウ」だけは回避したということなのではないかと思うんですね。「ウ」という母音はそもそも「ある(終止形:あり)」という動詞を抜いたすべての終止形の終わりに位置する母音です。実際語り手が「欠ける」と結語しているように、「る」としてのウ音で終わっています。
だから語り手はこの「ル」であえてほころびをつくることによって、母音を拾い集めようとしつつも未遂したのではないかとおもうのです。「ル」で未遂したということ。すなわちこれは、この「欠ける」という「ル」で終わった歌そのものも未遂したのではないかと思うのです。
これは語り手の言明をそのまま信じれば、「好きな字を拾ひ書きし」たことで「世界」が「欠ける」ことをうたったうたです。けれども、その行為そのものにひとつの「穴」が、ほころびがあった。拾い書きしつくそうとしても、しつくせない世界があった。その穴から、そのほころびから、語り手にとっての「満ちた世界」が、未遂の世界として、またあふれだしてくるようにわたしは思うんですね。「ル」だけ、変則にしたのはそのためだったのではないかとわたしはおもうんです。語り手は、ぎゃくに、無意識に、世界を欠きながらも、そのことによって、世界を満たし、あふれさせてもいるのではないかと。
これはかなりの深読みで、誤読だとはおもっているんですが、わたしはこのうたを初めてみたときに、直観として、「なんで世界が欠けてるうたなのに、こんなになにかが豊かな感じがしてくるんだろう」とおもったんですね。それは数年前に図書館の地下でそうおもったんですが、数年たってもしいまじぶんがあえてそのときのきもちを拾い書きするように言語化してみるならば、こうなるのかな、とおもいました。もちろん、これがわたしの世界の欠き方であり、わたしもその拾い書きによって、未遂し、挫折しているわけです。穴からは、もっともっと言語化不可能なこの歌の意味生成があふれてきます。
でも、ひとはときに、未遂して、まけいくさだとわかっていても、あえて言語化し、不可逆のながれにみをおかなければならないときもあるのではないだろうか、とときどきおもいます。
おそらく、この語り手も、拾い書きした瞬間に、逆説的にあふれる世界を感じていたのではないだろうか、とおもったりもします。それは、語り手が「ウの回避」として避けた、終わりのない、終止形のない豊穣な世界なのではなかったかと。
ここにゐる、ここを世界の静脈としてみづいろの時間のなかへ 荻原裕幸
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