【ふしぎな川柳 第一夜】いきられる、まぎゃく-松岡瑞枝-
- 2015/11/02
- 12:00
幸せで幸せで死を考える 松岡瑞枝
「どうして、こんな男が生きているんだ!」
ドミートリーが、うつろな調子で唸るようにつぶやいた。 ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』
1916年5月4日。たぶん明日、照明灯係に志願し上に登る。その時はじめて私にとっての戦争が始まるのだ。そして生もまた存在しうるのだ。たぶん死に近づくことが私の生に光をもたらすだろう。神よ我を照らしたまえ ウィトゲンシュタイン「東部戦線で照明燈係に決死で志願する前日の暗号日記」
だとすれば人生も、数々の悲劇に見舞われてなお美しいものでありうるはずだ。私はもう六十七歳になるが、今になってようやく実感したことがある。本当の自分を愛してもらったことがないため、青春というものを知らなかった私が、幕切れも間近にせまった今になって、かつてないほど若い自分を感じているのだ。そうなのだ、だからこそ未来は長く続くのである。 アルチュセール『未来は長く続く』
記号は嘘をつく。その記号が筆者の人生や内面といった現実の反映としてどの程度真なるものか偽なるものかという再現的尺度をはるかに越えた絶対的な地点において、記号は必ず嘘をつく。問題は、あたかも心があるかのように振舞うこの演戯の嘘が、これ以上ないほど現実的な現実だという点である 松浦寿輝『現代詩手帖』1983/9
【未来は長く続く】
文学者のボルヘスがかつてインタビューで、文学のなかで最大の逆説を生きようとしていたひとを描いたのはドストエフスキーなんじゃないかといっていて、ああそうかも、っておもったことがあるんですよ。
たとえば『悪霊』のスタヴローギンみたいに、〈うれしすぎて死にたい〉というような考え方ですね。あるいは『カラマーゾフの兄弟』の基調音でもある〈神さまはいないからなんだってできる〉っていうのも逆説かもしれませんよね。神さまはいないから、わたしたちのなかに内面を構築しなきゃではなくて、もうなんだってできるんだ、っていうカラマーゾフ的ななにか。あるいは『罪と罰』でラスコーリニコフがもっていた思想、〈じぶんはえらいのでなんだってしていい〉もそういう逆説のなかに入っていくようなきもします。
そういう点で、ドストエフスキーって〈漫画的〉で〈めちゃくちゃ〉なかんじで〈おかしく〉みえるときがあるとおもうんです。逆説っていうのはひとつの図式や構造のありかただから、それをフルボリュームで生きようとしているひとたちはどこか滑稽にみえるんじゃないかと。
で、川柳にもときどきふしぎなことだけれど、そういう逆説がマックスのかたちであらわれるようにおもうんです。
だから、川柳ってちょっとドストエフスキー的というか、カラマーゾフ的なんじゃないかともおもってるんですね。
松岡さんのこの句の語り手は、〈幸せの極み〉で〈死〉を志向している。最大の逆説を生きようとしているわけです。だとしたら、それはなんのための・どういう・どこにむかう・だれのための〈死〉なのか。
いやこんな別のいいかたをしてもいい。たとえば、最大のお別れ(グレートさようなら)のときに開封してしまう光の缶詰とは、いったいなんなのか。
お別れに光の缶詰を開ける 松岡瑞枝
「いまぼくにはきみひとりしかいない。いっしょにいこう。ぼくはきみのところへきたんだ。ふたりとも呪われた同士だ。だからいっしょにいこうじゃないか」ラスコーリニコフの眼はキラキラと輝いていた。狂人みたいだ☆、とソーニャもおもった。 ドストエフスキー『罪と罰』
カウリスマキ『浮き雲』(1996)。カウリスマキ映画のなかでひとは〈最大の沈黙における最大の饒舌〉を生きようとする。カメラはほとんど動かず、俳優たちも〈無表情〉のバリエーションをさまざまにみせてゆく。それは小津安二郎映画をさらに乾燥させたようなドライな感じを与えるけれど、でも映画っていうのはそもそもが〈表情〉や〈仕草〉の零度を俳優の身体に発見してゆくことの〈おどろきとおののき〉なのではなかったか。
「どうして、こんな男が生きているんだ!」
ドミートリーが、うつろな調子で唸るようにつぶやいた。 ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』
1916年5月4日。たぶん明日、照明灯係に志願し上に登る。その時はじめて私にとっての戦争が始まるのだ。そして生もまた存在しうるのだ。たぶん死に近づくことが私の生に光をもたらすだろう。神よ我を照らしたまえ ウィトゲンシュタイン「東部戦線で照明燈係に決死で志願する前日の暗号日記」
だとすれば人生も、数々の悲劇に見舞われてなお美しいものでありうるはずだ。私はもう六十七歳になるが、今になってようやく実感したことがある。本当の自分を愛してもらったことがないため、青春というものを知らなかった私が、幕切れも間近にせまった今になって、かつてないほど若い自分を感じているのだ。そうなのだ、だからこそ未来は長く続くのである。 アルチュセール『未来は長く続く』
記号は嘘をつく。その記号が筆者の人生や内面といった現実の反映としてどの程度真なるものか偽なるものかという再現的尺度をはるかに越えた絶対的な地点において、記号は必ず嘘をつく。問題は、あたかも心があるかのように振舞うこの演戯の嘘が、これ以上ないほど現実的な現実だという点である 松浦寿輝『現代詩手帖』1983/9
【未来は長く続く】
文学者のボルヘスがかつてインタビューで、文学のなかで最大の逆説を生きようとしていたひとを描いたのはドストエフスキーなんじゃないかといっていて、ああそうかも、っておもったことがあるんですよ。
たとえば『悪霊』のスタヴローギンみたいに、〈うれしすぎて死にたい〉というような考え方ですね。あるいは『カラマーゾフの兄弟』の基調音でもある〈神さまはいないからなんだってできる〉っていうのも逆説かもしれませんよね。神さまはいないから、わたしたちのなかに内面を構築しなきゃではなくて、もうなんだってできるんだ、っていうカラマーゾフ的ななにか。あるいは『罪と罰』でラスコーリニコフがもっていた思想、〈じぶんはえらいのでなんだってしていい〉もそういう逆説のなかに入っていくようなきもします。
そういう点で、ドストエフスキーって〈漫画的〉で〈めちゃくちゃ〉なかんじで〈おかしく〉みえるときがあるとおもうんです。逆説っていうのはひとつの図式や構造のありかただから、それをフルボリュームで生きようとしているひとたちはどこか滑稽にみえるんじゃないかと。
で、川柳にもときどきふしぎなことだけれど、そういう逆説がマックスのかたちであらわれるようにおもうんです。
だから、川柳ってちょっとドストエフスキー的というか、カラマーゾフ的なんじゃないかともおもってるんですね。
松岡さんのこの句の語り手は、〈幸せの極み〉で〈死〉を志向している。最大の逆説を生きようとしているわけです。だとしたら、それはなんのための・どういう・どこにむかう・だれのための〈死〉なのか。
いやこんな別のいいかたをしてもいい。たとえば、最大のお別れ(グレートさようなら)のときに開封してしまう光の缶詰とは、いったいなんなのか。
お別れに光の缶詰を開ける 松岡瑞枝
「いまぼくにはきみひとりしかいない。いっしょにいこう。ぼくはきみのところへきたんだ。ふたりとも呪われた同士だ。だからいっしょにいこうじゃないか」ラスコーリニコフの眼はキラキラと輝いていた。狂人みたいだ☆、とソーニャもおもった。 ドストエフスキー『罪と罰』
カウリスマキ『浮き雲』(1996)。カウリスマキ映画のなかでひとは〈最大の沈黙における最大の饒舌〉を生きようとする。カメラはほとんど動かず、俳優たちも〈無表情〉のバリエーションをさまざまにみせてゆく。それは小津安二郎映画をさらに乾燥させたようなドライな感じを与えるけれど、でも映画っていうのはそもそもが〈表情〉や〈仕草〉の零度を俳優の身体に発見してゆくことの〈おどろきとおののき〉なのではなかったか。
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