【ふしぎな川柳 第二夜】かごめかごめの輪の中で-奈良一艘-
- 2015/11/02
- 18:15
「熱反応物理学」かごめかごめの輪の中で 奈良一艘
かあさん かあさん おかあさん、ふりつもるよびごえ
子宮に眠る地球では星が降りしきっているよ
かごめかごめうしろのしょうめんだあれ
中家菜津子「うずく、まる」
三度目に、○、まるいものを書いて、線の端がまとまる時、さっと地を払って空へえぐるような風が吹くと、谷底の灯の影がすっきり冴えて、鮮やかに薄紅梅。浜か、海の色か、と見る耳もとへ、ちゃらちゃらと鳴ったのは、投げ銭と木の葉の摺れ合う音で、くるくると廻った。 泉鏡花「春昼」
【かごめかごめアゲイン】
以前、川柳スープレックスでも「かごめかごめ」について考えたことがあるんですが、やっぱりちょっとふしぎなんですよね。
で、かごめかごめっていうのは中家さんの詩にもあるように「うしろのしょうめんだあれ」が〈ヤマ〉になるわけですから、ある意味で、存在の様式論ということもできるのではないかとおもうんですね。フロイトがいないいないばあは〈存在の遊び〉だといっていたけれど、それにちょっと似ている。
しかも「うしろのしょうめん」ってちょっと奇妙ないいかたで、メビウスの輪みたいにねじれたかんじもしますよね。
かごめかごめではひとつそうした〈存在の様式〉を問い続けるありかたが大事なようにおもう。他者に囲まれたこのわたしは誰なのか、という問題です。
で、一艘さんの句は、そうした存在の遊戯を「熱反応物理学」とかけあわせているところがおもしろいとおもうんですよね。「うしろのしょうめんだあれ」っていうのは考えてみると、ゼロワンなんですね。それは正体不明のX(エックス)か特定の誰かなんですよ。つまり、うしろのしょうめんを〈観察〉するかどうか、それまでの不確定の波のゆらぎのなかにいるのがかごめかごめですよね(だからある意味で京極夏彦の『姑獲鳥の夏』は壮大なかごめかごめの物語だということができます)。
けれど、そうしたゼロワンを一艘さんの句は否定していて、「熱反応」というゆるやかな化学/物理変化を遂行しているわけです。かごめかごめの波のなかで。
だから「熱反応物理学」っていうは、かごめかごめが要請してくるゼロワンへの〈たたかい〉でもあるんじゃないかとおもうんですよ。ひとは川柳のなかにおいても、たたかわなければならないから。かごめかごめをしているときでも。
踊るしかないな性善説の輪の中で 奈良一艘
星とわたしが同じになる夜
えらいひとがいいました
わたしを殺さないものは
わたしをより強くするって
中家菜津子「うずく、まる」
ミヒャエル・ハネケ『城』(1997)。カフカの『城』を〈忠実〉に映像化したもの。えんえんと続く〈横歩き〉のロングショットが映画としての〈城〉へのたどりつかなさを思わせる。任天堂のマリオもそうなのだけれど、画面端から画面端への〈横歩き〉というのは結局目標到達点への遅延でしかない(おそらく到達するというのは、実は、ただたんに〈奥行き〉を感知できるということなのではないだろうか。実際、カフカ『城』のテキストでも〈無駄に〉測量士は道を曲がることによって城に到達できない。彼は立体や奥行きのなかで城をとらえることができていない)。ミヒャエル・ハネケは暴力をたんたんと描くことでも有名だけれども、実はハネケの暴力性とは、暴力を平面的に描くこと、奥行きを排除しているところにあるのではないだろうか。ひとは、奥行きがないからこそ、暴力を暴力として認識できないのだ
かあさん かあさん おかあさん、ふりつもるよびごえ
子宮に眠る地球では星が降りしきっているよ
かごめかごめうしろのしょうめんだあれ
中家菜津子「うずく、まる」
三度目に、○、まるいものを書いて、線の端がまとまる時、さっと地を払って空へえぐるような風が吹くと、谷底の灯の影がすっきり冴えて、鮮やかに薄紅梅。浜か、海の色か、と見る耳もとへ、ちゃらちゃらと鳴ったのは、投げ銭と木の葉の摺れ合う音で、くるくると廻った。 泉鏡花「春昼」
【かごめかごめアゲイン】
以前、川柳スープレックスでも「かごめかごめ」について考えたことがあるんですが、やっぱりちょっとふしぎなんですよね。
で、かごめかごめっていうのは中家さんの詩にもあるように「うしろのしょうめんだあれ」が〈ヤマ〉になるわけですから、ある意味で、存在の様式論ということもできるのではないかとおもうんですね。フロイトがいないいないばあは〈存在の遊び〉だといっていたけれど、それにちょっと似ている。
しかも「うしろのしょうめん」ってちょっと奇妙ないいかたで、メビウスの輪みたいにねじれたかんじもしますよね。
かごめかごめではひとつそうした〈存在の様式〉を問い続けるありかたが大事なようにおもう。他者に囲まれたこのわたしは誰なのか、という問題です。
で、一艘さんの句は、そうした存在の遊戯を「熱反応物理学」とかけあわせているところがおもしろいとおもうんですよね。「うしろのしょうめんだあれ」っていうのは考えてみると、ゼロワンなんですね。それは正体不明のX(エックス)か特定の誰かなんですよ。つまり、うしろのしょうめんを〈観察〉するかどうか、それまでの不確定の波のゆらぎのなかにいるのがかごめかごめですよね(だからある意味で京極夏彦の『姑獲鳥の夏』は壮大なかごめかごめの物語だということができます)。
けれど、そうしたゼロワンを一艘さんの句は否定していて、「熱反応」というゆるやかな化学/物理変化を遂行しているわけです。かごめかごめの波のなかで。
だから「熱反応物理学」っていうは、かごめかごめが要請してくるゼロワンへの〈たたかい〉でもあるんじゃないかとおもうんですよ。ひとは川柳のなかにおいても、たたかわなければならないから。かごめかごめをしているときでも。
踊るしかないな性善説の輪の中で 奈良一艘
星とわたしが同じになる夜
えらいひとがいいました
わたしを殺さないものは
わたしをより強くするって
中家菜津子「うずく、まる」
ミヒャエル・ハネケ『城』(1997)。カフカの『城』を〈忠実〉に映像化したもの。えんえんと続く〈横歩き〉のロングショットが映画としての〈城〉へのたどりつかなさを思わせる。任天堂のマリオもそうなのだけれど、画面端から画面端への〈横歩き〉というのは結局目標到達点への遅延でしかない(おそらく到達するというのは、実は、ただたんに〈奥行き〉を感知できるということなのではないだろうか。実際、カフカ『城』のテキストでも〈無駄に〉測量士は道を曲がることによって城に到達できない。彼は立体や奥行きのなかで城をとらえることができていない)。ミヒャエル・ハネケは暴力をたんたんと描くことでも有名だけれども、実はハネケの暴力性とは、暴力を平面的に描くこと、奥行きを排除しているところにあるのではないだろうか。ひとは、奥行きがないからこそ、暴力を暴力として認識できないのだ
- 関連記事
スポンサーサイト
- テーマ:読書感想文
- ジャンル:小説・文学
- カテゴリ:ふしぎな川柳-川柳百物語拾遺-