【感想】名前だけ好きな魚を焼いてゐる あなたもいつか死ぬのでせうね 村本希理子
- 2015/11/03
- 00:07
名前だけ好きな魚を焼いてゐる あなたもいつか死ぬのでせうね 村本希理子
草原の真ん中あたりまで行くと、くまはバスケットの中から敷物を取り出して広げた。鮭のソテーオランデーズソースかけ。なすとズッキーニのフライ。いんげんのアンチョビあえ。赤ピーマンのロースト。ニョッキ。ペンネのカリフラワーソース。いちごのバルサミコ酢かけ。ラム酒のケーキ。オープンアップルパイ。バスケットから取り出して並べながら、くまはひとつひとつの料理の名前を言っていった。しゃれてるね、と言うと、くまはちょっと横を向き、おほんと咳払いした。 川上弘美「草上の朝食」『神様』
私はすわりこんで、こう目をつぶって――こんなことを考えたよ。百年、二百年あとから、この世に生れてくる人たちは、今こうして、せっせと開拓者の仕事をしているわれわれのことを、ありがたいと思ってくれるだろうか、とね。ねえ、ばあやさん。そんなこと、思っちゃくれまいねえ。 チェーホフ『ワーニャ叔父さん』
【すべてのひとはワーニャ叔父さん】
水木しげるがこどもの頃に、先生から、人間はだれもが全員死ぬってきいて、じぶんだけは死なないとおもっていたからすごく驚いたそうなんですけど、やっぱりどこかでじぶんは死なないんじゃないかっていうのを誰しももっているようなきがするんです。
だけれども、まあ、死ぬんですよ。チェーホフの『ワーニャ叔父さん』で百年先の未来のひとたちがわたしたちのことを感謝してくれるだろうかって話をしてるシーンがあるんだけれど、百年たったら少なくともそこにいる全員死んでいていないんですね。だから未来の話をしていると同時に、じぶんたちがすべていなくなったあとの話も同時にしてる。だいたい百年たったらいないですね、わたしもあなたも。
ただ死ぬことは死ぬんだけれども、でもひとの生きた痕跡や屈折は残るんじゃないかとおもうんです。
たとえば村本さんの歌では「名前だけ好きな魚を焼いてゐる」って語られているんだけれども、だから、「好きな魚」ではないわけですね。名前だけ好きな魚で、たぶん、「あなた」のために焼いているんだろうともおもう。
でもそうしたふたりの屈折した生活はどこかになんらかのかたちで残るんじゃないか。それは習慣としてかもしれないし、当時の共有された文化のなかでかもしれない。でもそういう屈折やノイズが百年たったあとでも残るようなきがするんです。
だとしたら、そういうはかない名前とそれにともなうおのおののプラチック(行動)にわたしたちの生があるんじゃないだろうか。
そんなふうにおもったんですよ。村本さんの歌を読んで。
呼ぶための呟くための唄うための嘯くための声の屈折 佐々木遙
キアロスタミ『桜桃の味』(1997)。自殺志願者は自殺するための場所をもとめてえんえんと砂利道に車を走らせる。そのとき、たまたま乗せた老人から彼は〈桜桃の味〉がいかに素晴らしかったかをきく。それは、なんでもないものでありながら、かけがえのないものだったと。男の自殺の動機は語られないし、なぜ男が心変わりしたのかも語られない。それは重要じゃない。重要なのは、転機は、思いがけないささいなことからやってくるということであり、そしてその転機は誰にも説明がつかないものなのだ。人間はたしかにみんな死ぬのだけれども、でもその死までのあいだに、なんどか説明のつかない転機をひとはむかえる
年齢、戦争、歴史観の動揺、怠惰への嫌悪、文学への謙虚、神は在る、などといろいろ挙げる事も出来るであろうが、人の転機の説明は、どうも何だか空々しい。その説明が、ぎりぎりに正確を期したものであっても、それでも必ずどこかに嘘の間隙が匂っているものだ。人は、いつも、こう考えたり、そう思ったりして行路を選んでいるものでは無いからでもあろう。多くの場合、人はいつのまにか、ちがう野原を歩いている。 太宰治「東京八景」
草原の真ん中あたりまで行くと、くまはバスケットの中から敷物を取り出して広げた。鮭のソテーオランデーズソースかけ。なすとズッキーニのフライ。いんげんのアンチョビあえ。赤ピーマンのロースト。ニョッキ。ペンネのカリフラワーソース。いちごのバルサミコ酢かけ。ラム酒のケーキ。オープンアップルパイ。バスケットから取り出して並べながら、くまはひとつひとつの料理の名前を言っていった。しゃれてるね、と言うと、くまはちょっと横を向き、おほんと咳払いした。 川上弘美「草上の朝食」『神様』
私はすわりこんで、こう目をつぶって――こんなことを考えたよ。百年、二百年あとから、この世に生れてくる人たちは、今こうして、せっせと開拓者の仕事をしているわれわれのことを、ありがたいと思ってくれるだろうか、とね。ねえ、ばあやさん。そんなこと、思っちゃくれまいねえ。 チェーホフ『ワーニャ叔父さん』
【すべてのひとはワーニャ叔父さん】
水木しげるがこどもの頃に、先生から、人間はだれもが全員死ぬってきいて、じぶんだけは死なないとおもっていたからすごく驚いたそうなんですけど、やっぱりどこかでじぶんは死なないんじゃないかっていうのを誰しももっているようなきがするんです。
だけれども、まあ、死ぬんですよ。チェーホフの『ワーニャ叔父さん』で百年先の未来のひとたちがわたしたちのことを感謝してくれるだろうかって話をしてるシーンがあるんだけれど、百年たったら少なくともそこにいる全員死んでいていないんですね。だから未来の話をしていると同時に、じぶんたちがすべていなくなったあとの話も同時にしてる。だいたい百年たったらいないですね、わたしもあなたも。
ただ死ぬことは死ぬんだけれども、でもひとの生きた痕跡や屈折は残るんじゃないかとおもうんです。
たとえば村本さんの歌では「名前だけ好きな魚を焼いてゐる」って語られているんだけれども、だから、「好きな魚」ではないわけですね。名前だけ好きな魚で、たぶん、「あなた」のために焼いているんだろうともおもう。
でもそうしたふたりの屈折した生活はどこかになんらかのかたちで残るんじゃないか。それは習慣としてかもしれないし、当時の共有された文化のなかでかもしれない。でもそういう屈折やノイズが百年たったあとでも残るようなきがするんです。
だとしたら、そういうはかない名前とそれにともなうおのおののプラチック(行動)にわたしたちの生があるんじゃないだろうか。
そんなふうにおもったんですよ。村本さんの歌を読んで。
呼ぶための呟くための唄うための嘯くための声の屈折 佐々木遙
キアロスタミ『桜桃の味』(1997)。自殺志願者は自殺するための場所をもとめてえんえんと砂利道に車を走らせる。そのとき、たまたま乗せた老人から彼は〈桜桃の味〉がいかに素晴らしかったかをきく。それは、なんでもないものでありながら、かけがえのないものだったと。男の自殺の動機は語られないし、なぜ男が心変わりしたのかも語られない。それは重要じゃない。重要なのは、転機は、思いがけないささいなことからやってくるということであり、そしてその転機は誰にも説明がつかないものなのだ。人間はたしかにみんな死ぬのだけれども、でもその死までのあいだに、なんどか説明のつかない転機をひとはむかえる
年齢、戦争、歴史観の動揺、怠惰への嫌悪、文学への謙虚、神は在る、などといろいろ挙げる事も出来るであろうが、人の転機の説明は、どうも何だか空々しい。その説明が、ぎりぎりに正確を期したものであっても、それでも必ずどこかに嘘の間隙が匂っているものだ。人は、いつも、こう考えたり、そう思ったりして行路を選んでいるものでは無いからでもあろう。多くの場合、人はいつのまにか、ちがう野原を歩いている。 太宰治「東京八景」
- 関連記事
スポンサーサイト
- テーマ:読書感想文
- ジャンル:小説・文学
- カテゴリ:々々の短歌感想