【感想】3番線快速電車が通過します理解できない人は下がって 中澤系/月になまめき自殺可能のレール走る 林田紀音夫
- 2015/11/03
- 17:56
3番線快速電車が通過します理解できない人は下がって 中澤系
月になまめき自殺可能のレール走る 林田紀音夫
いよいよ現実世界へ引きずり出された。汽車の見える所を現実世界と云う。汽車ほど二十世紀の文明を代表するものはあるまい。何百と云う人間を同じ箱へ詰めて轟と通る。情け容赦はない。詰め込まれた人間は皆同程度の速力で、同一の停車場へとまってそうして、同様に蒸気の恩沢に浴さねばならぬ。人は汽車へ乗ると云う。余は積み込まれると云う。人は汽車で行くと云う。余は運搬されると云う。汽車ほど個性を軽蔑したものはない。 夏目漱石『草枕』
二人の話が切れた時、突然、「ゆうべの轢死を御覧になって」と聞いた。見ると部屋のすみに新聞がある。三四郎が、「ええ」と言う。「こわかったでしょう」と言いながら、少し首を横に曲げて、三四郎を見た。 夏目漱石『三四郎』
飯田橋へ来て電車に乗った。電車は真直に走り出した。代助は車のなかで、「ああ動く。世の中が動く」とはたの人に聞える様に云った。彼の頭は電車の速力を以て回転し出した。回転するに従って火の様にほてって来た。これで半日乗り続けたら焼き尽す事が出来るだろうと思った。 夏目漱石『それから』
【ぼくたちはいつこわれたのか】
《電車》っていうものが近代からひとつの《理解しがたさ》としてずっとあるようにおもうんです。
それはたとえば、『三四郎』にみられるような《死》のなかでももっとも表象しがたいような《轢死》だったり、或いは『それから』『草枕』にみられるような主体の意志/意思とは無関係に人間を運搬していく乗り物としての電車です。そこで『それから』の代助は電車そのものにアクセスしてしまって、サイバーパンクみたいな事態を起こしているわけです。電車の処理能力と、人間の処理能力はちがうから。
林田紀音夫の俳句の「自殺可能」というのも、電車っていうのは、そういうつねに《潜在的な死》としてわれわれのまえに現前してきている。死の選択可能性として、乗りますかと同時に死にますかと問いかけてくる、そういうものとしてあるし、均質な近代国家を国土にレールを引いてつくるさいにそういうものを敷設していってしまったわけです。
だから、《理解できない》とおもうんですよ。いや、たぶん理解してアクセスしようとすると、『それから』の代助みたいにぐるぐるのパンクした世界にいってしまう。
だから情のわくぐみをはずして、理解できないひとはさがれという身体的な、《剥き出しの身体》を生政治的に管理するしかない。電車は理解するとか理解しないとかではないから。
剥き出しの身体を管理されるときに、そもそも《理解》とはなんだったかをかんがえはじめてみること。その潜勢態を。
ぼくたちはこわれてしまったぼくたちはこわれてしまったぼくたちはこわ 中澤系
思考するというのは、たんに、これこれの物やしかじかのすでに現勢化した思考内容に動かされる、という意味であるだけではない。受容性そのものに動かされ、それぞれの思考対象において、思考するという純粋な潜勢力を経験する、という意味でもある。 アガンベン『人権の彼方へ』
キェシロフスキ『偶然』(1981)。駅ですれちがう三つの選択肢としてのじんせいをひとつの映画として描く。もし電車にのりそこねたらどうなっていたのか、もし電車に乗れていたらどうだったのか、駅や電車はそうした〈わたし〉が〈わたし〉とすれ違う場としても機能している。もちろん、乗れるひとと乗れないひと、優先席、女性専用車両、グリーン車と〈排除の政治学〉が問われるのもまた電車である
月になまめき自殺可能のレール走る 林田紀音夫
いよいよ現実世界へ引きずり出された。汽車の見える所を現実世界と云う。汽車ほど二十世紀の文明を代表するものはあるまい。何百と云う人間を同じ箱へ詰めて轟と通る。情け容赦はない。詰め込まれた人間は皆同程度の速力で、同一の停車場へとまってそうして、同様に蒸気の恩沢に浴さねばならぬ。人は汽車へ乗ると云う。余は積み込まれると云う。人は汽車で行くと云う。余は運搬されると云う。汽車ほど個性を軽蔑したものはない。 夏目漱石『草枕』
二人の話が切れた時、突然、「ゆうべの轢死を御覧になって」と聞いた。見ると部屋のすみに新聞がある。三四郎が、「ええ」と言う。「こわかったでしょう」と言いながら、少し首を横に曲げて、三四郎を見た。 夏目漱石『三四郎』
飯田橋へ来て電車に乗った。電車は真直に走り出した。代助は車のなかで、「ああ動く。世の中が動く」とはたの人に聞える様に云った。彼の頭は電車の速力を以て回転し出した。回転するに従って火の様にほてって来た。これで半日乗り続けたら焼き尽す事が出来るだろうと思った。 夏目漱石『それから』
政治とは、人間の本質的な働きのなさに対応するもの、人間の共同体の根源的に働きのない存在に対応するものである。そこに政治がある。というのも、人間とは働きのない存在であり、そのような固有の働きによっても定義づけられないからである。 アガンベン『人権の彼方へ』
【ぼくたちはいつこわれたのか】
《電車》っていうものが近代からひとつの《理解しがたさ》としてずっとあるようにおもうんです。
それはたとえば、『三四郎』にみられるような《死》のなかでももっとも表象しがたいような《轢死》だったり、或いは『それから』『草枕』にみられるような主体の意志/意思とは無関係に人間を運搬していく乗り物としての電車です。そこで『それから』の代助は電車そのものにアクセスしてしまって、サイバーパンクみたいな事態を起こしているわけです。電車の処理能力と、人間の処理能力はちがうから。
林田紀音夫の俳句の「自殺可能」というのも、電車っていうのは、そういうつねに《潜在的な死》としてわれわれのまえに現前してきている。死の選択可能性として、乗りますかと同時に死にますかと問いかけてくる、そういうものとしてあるし、均質な近代国家を国土にレールを引いてつくるさいにそういうものを敷設していってしまったわけです。
だから、《理解できない》とおもうんですよ。いや、たぶん理解してアクセスしようとすると、『それから』の代助みたいにぐるぐるのパンクした世界にいってしまう。
だから情のわくぐみをはずして、理解できないひとはさがれという身体的な、《剥き出しの身体》を生政治的に管理するしかない。電車は理解するとか理解しないとかではないから。
剥き出しの身体を管理されるときに、そもそも《理解》とはなんだったかをかんがえはじめてみること。その潜勢態を。
ぼくたちはこわれてしまったぼくたちはこわれてしまったぼくたちはこわ 中澤系
思考するというのは、たんに、これこれの物やしかじかのすでに現勢化した思考内容に動かされる、という意味であるだけではない。受容性そのものに動かされ、それぞれの思考対象において、思考するという純粋な潜勢力を経験する、という意味でもある。 アガンベン『人権の彼方へ』
キェシロフスキ『偶然』(1981)。駅ですれちがう三つの選択肢としてのじんせいをひとつの映画として描く。もし電車にのりそこねたらどうなっていたのか、もし電車に乗れていたらどうだったのか、駅や電車はそうした〈わたし〉が〈わたし〉とすれ違う場としても機能している。もちろん、乗れるひとと乗れないひと、優先席、女性専用車両、グリーン車と〈排除の政治学〉が問われるのもまた電車である
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