【短歌】ぱしぱしと…(抒情文芸 第150号 2014春 佳作・小島ゆかり選)
- 2014/04/03
- 20:54
ぱしぱしと風の弾丸撃ち込んで無傷のきみの眼に記録する 柳本々々
(抒情文芸 第150号 2014春 佳作・小島ゆかり選)
【朔太郎と啄木が、撃つ-あなたのぴすとる-】
むかしから詩のなかに出てくるピストルにあこがれていた。
萩原朔太郎の詩や石川啄木のうたには、ピストルが出てくる。部分的に、引用してみよう。
とほい空でぴすとるが鳴る。
またぴすとるが鳴る。
ああ私の探偵は玻璃の衣装をきて、
こひびとの窓からしのびこむ、
床は晶玉、
ゆびとゆびとのあひだから、
まつさをの血がながれてゐる、
かなしい女の屍體のうえで、
つめたいきりぎりすが鳴いてゐる。
萩原朔太郎「殺人事件」『月に吠える』
いたく錆びしピストル出でぬ
砂山の
砂を指もて掘りてありしに
誰そ我に
ピストルにても撃てよかし
伊藤のごとく死にて見せなむ
こそこその話がやがて高くなり
ピストル鳴りて
人生終る
石川啄木『一握の砂・悲しき玩具』
これらの詩ではピストルから派生した出来事にくわえ、ピストルそのもののなまなましさと存在感にドラマの重点がおかれている。ピストルが砂の中からでてくるだけでそれはドラマなのだ。
また、ピストルは聴覚とも親和性がつよい。その場の意味を一転して変えるような音の表象としてピストルが鳴る。
存在のドラマ、音のドラマ。
くわえてきょうみぶかいのは、ピストルをもちだしたときに、「伊藤のごとくに死にて見せなむ」と歌われるようにそこには語り手の〈死〉も胚胎されることとなることだ。
ピストルそのものは〈死〉の表象ではないのだが、潜在的にわたしたちは死ぬ可能性をもっているという死の潜勢力としてピストルは詩歌にでてくる。
ドラマや映画においてピストルは、〈撃つか撃たれるか〉というハムレット的主題に回収されてしまいがちだが、詩歌においてピストルは、みずからにひそむ死の潜勢力として、または他者につねに、すでに胚胎されてある死の可能性として表象されているようにおもう。ぱん。
【自(分で)解(いてみる)-わたしのぴすとる-】
むかしから、ひとを傷つけないピストルがあったらいいのにな、とおもっているのだが、じつはけっこうある。たとえば、撃つとピストルから花が咲く手品もあるし、ドラえもんの空気砲もある。もちろん、ことばでピストルを撃つこともできる。ことばのほうが、きずは重傷だったりする場合もあるけれど
チョコレートの弾丸なんかもいいなとおもったりする。甘く、死ぬのだ。もしわたしがショコラティエだったら、至福の表情でチョコレートの弾丸につらぬかれ、ゆっくり、あまく、すこしだけビターにしぬのかなとさえ、おもう。ほんもうです、と。
しかし風の弾丸なら質量はほとんどない。というか、ない。風の弾丸だったら、すきなひとの眼にだって撃つことができる。たぶん、撃ってもかれ/かのじょはきづかない。しかし、撃ったことは、撃ったのだ。あなた/わたしはきづかないかもしれないけれど。わたし/あなたもわすれてしまうかもしれないけれど。ある晴れた日曜の朝かなんかに。ぱん、ぱん、と2、3発。
風のマフィアによる、風のマシンガンの機銃掃射なんかもいい。春だったら、おだやかなさくらのかおりもとけこんで、きもちよさそうだ。春眠のなか、しずかに、おだやかに、撃たれること。
おそらくだれにでもあるはずの、風の弾痕。
風と云えば、わたしはいつもつぎのブローティガンの一節をおもいだす。さいごにそれを撃ちこんで、おわりにしようとおもう。
わたしたちはゆっくりと、そして長い時間をかけて愛し合った。風が起こって、窓がかすかに震えた。風で、脆そうに半開きになった砂糖。
わたしはポーリーンのからだが気に入っていた。ポーリーンもわたしのが好きだといった。そんなこと以外には、わたしたちにはほかにいうことがなかった。
風がとつぜん止んだ。
と、ポーリーンがいった。「なんなの?」
「風だよ」
ブローティガン「愛と、風と」『西瓜糖の日々』
(抒情文芸 第150号 2014春 佳作・小島ゆかり選)
【朔太郎と啄木が、撃つ-あなたのぴすとる-】
むかしから詩のなかに出てくるピストルにあこがれていた。
萩原朔太郎の詩や石川啄木のうたには、ピストルが出てくる。部分的に、引用してみよう。
とほい空でぴすとるが鳴る。
またぴすとるが鳴る。
ああ私の探偵は玻璃の衣装をきて、
こひびとの窓からしのびこむ、
床は晶玉、
ゆびとゆびとのあひだから、
まつさをの血がながれてゐる、
かなしい女の屍體のうえで、
つめたいきりぎりすが鳴いてゐる。
萩原朔太郎「殺人事件」『月に吠える』
いたく錆びしピストル出でぬ
砂山の
砂を指もて掘りてありしに
誰そ我に
ピストルにても撃てよかし
伊藤のごとく死にて見せなむ
こそこその話がやがて高くなり
ピストル鳴りて
人生終る
石川啄木『一握の砂・悲しき玩具』
これらの詩ではピストルから派生した出来事にくわえ、ピストルそのもののなまなましさと存在感にドラマの重点がおかれている。ピストルが砂の中からでてくるだけでそれはドラマなのだ。
また、ピストルは聴覚とも親和性がつよい。その場の意味を一転して変えるような音の表象としてピストルが鳴る。
存在のドラマ、音のドラマ。
くわえてきょうみぶかいのは、ピストルをもちだしたときに、「伊藤のごとくに死にて見せなむ」と歌われるようにそこには語り手の〈死〉も胚胎されることとなることだ。
ピストルそのものは〈死〉の表象ではないのだが、潜在的にわたしたちは死ぬ可能性をもっているという死の潜勢力としてピストルは詩歌にでてくる。
ドラマや映画においてピストルは、〈撃つか撃たれるか〉というハムレット的主題に回収されてしまいがちだが、詩歌においてピストルは、みずからにひそむ死の潜勢力として、または他者につねに、すでに胚胎されてある死の可能性として表象されているようにおもう。ぱん。
【自(分で)解(いてみる)-わたしのぴすとる-】
むかしから、ひとを傷つけないピストルがあったらいいのにな、とおもっているのだが、じつはけっこうある。たとえば、撃つとピストルから花が咲く手品もあるし、ドラえもんの空気砲もある。もちろん、ことばでピストルを撃つこともできる。ことばのほうが、きずは重傷だったりする場合もあるけれど
チョコレートの弾丸なんかもいいなとおもったりする。甘く、死ぬのだ。もしわたしがショコラティエだったら、至福の表情でチョコレートの弾丸につらぬかれ、ゆっくり、あまく、すこしだけビターにしぬのかなとさえ、おもう。ほんもうです、と。
しかし風の弾丸なら質量はほとんどない。というか、ない。風の弾丸だったら、すきなひとの眼にだって撃つことができる。たぶん、撃ってもかれ/かのじょはきづかない。しかし、撃ったことは、撃ったのだ。あなた/わたしはきづかないかもしれないけれど。わたし/あなたもわすれてしまうかもしれないけれど。ある晴れた日曜の朝かなんかに。ぱん、ぱん、と2、3発。
風のマフィアによる、風のマシンガンの機銃掃射なんかもいい。春だったら、おだやかなさくらのかおりもとけこんで、きもちよさそうだ。春眠のなか、しずかに、おだやかに、撃たれること。
おそらくだれにでもあるはずの、風の弾痕。
風と云えば、わたしはいつもつぎのブローティガンの一節をおもいだす。さいごにそれを撃ちこんで、おわりにしようとおもう。
わたしたちはゆっくりと、そして長い時間をかけて愛し合った。風が起こって、窓がかすかに震えた。風で、脆そうに半開きになった砂糖。
わたしはポーリーンのからだが気に入っていた。ポーリーンもわたしのが好きだといった。そんなこと以外には、わたしたちにはほかにいうことがなかった。
風がとつぜん止んだ。
と、ポーリーンがいった。「なんなの?」
「風だよ」
ブローティガン「愛と、風と」『西瓜糖の日々』
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