【感想】名詞オンリーの短歌/俳句/川柳-刑務所・二人・朝貌・銀河・自涜・鬱-
- 2014/06/24
- 15:15
電信隊浄水池女子大学刑務所射撃場塹壕赤羽の鉄橋隅田川品川湾 斎藤茂吉
錐・蠍・旱・雁・掏摸・檻・囮・森・橇・二人・鎖・百合・塵 塚本邦雄
萩(はぎ)の花 尾花(をばな) 葛花(くずばな) 瞿麦(なでしこ)の花 女郎花(をみなへし) また 藤袴(ふぢばかま) 朝貌(あさがほ)の花 山上憶良
銀座銀河銀河銀座東京廃墟 三橋敏雄
法医学・桜・暗黒・父・自涜 寺山修司
【ワーナー・マイカル・シネマズにゆく山上憶良】
うえにあげた歌や句は、ほとんどすべてが名詞から成り立っています。斎藤茂吉のうたは飛行機のうえから詠んだ歌だったので、視線がうつろうように場所が並列化されてあるんですが、こういった名詞だけの短詩型とはいったいなんなのかということについてときどきかんがえます。
ひとつとっかかりとしてかんがえてみたいのは、名詞だけでつくられた短詩型には、助詞=助辞がない点です。助詞がないということはどういうことかというと、接着剤がないようなもので、その歌のなかにおける構造や関係性への志向が稀薄だということになります。「が」や「は」「を」などの助詞は、名詞と名詞の間の関係性やポジションをあらわすのですが、名詞がべたべた並べられた短詩型においては、それらを構造化する手だてがありません。あえていえば、構造化するのは流れ=ベクトルということになります。
流れ=ベクトルをつくるのは、それを読んでいく読み手でもあります。だから、助詞もなく、名詞が並んでいる短詩型の構造や関係性は読み手にゆだねられているのではないかとおもうんです。つまり、読み手自身が助詞となり、〈読む〉という行為そのものが関係性や構造化を駆動する装置そのものになります。
もうひとつ少し別の観方もしてみたいと思います。斎藤茂吉が名詞をべたべた並べるうたをつくったのが、飛行機に乗っていたときというのが示唆的だと思うんです。つまり、移動している、というよりも、移動させられている、わけです。わたしが主体としてみている、のではなく、わたしはむしろそのとき客体として〈風景〉をうつしていくスクリーンのようなメディアとして働くことになります。
この飛行機と似たような近代装置が、映画です。映画は、時間芸術といわれますが、それは映画がたとえ起きていても、眠っていても、始まって・終わる点にあります。小説は、みずからが主体となって読まなければ終わりません。しかし、映画はちがいます。映画は始まってしまえば、たとえ眼をつむっていようが、終わります。映画の物語構造は、なによりも時間が助詞の役割をし、構造化しているのではないかとわたしはおもったりします(たとえ無意味なショットとショットをつなぐわせても意味が起爆するというモンタージュ理論はよくそのことをあらわしているように思います)。そしてこの進むことによって、ベクトルによって構造化していく流れは、これら名詞を並べた短詩型によく似ています。つまりこれらは映画的感性によるうたではないかとおもうのです。だからこそ、映画をみたことがない山上憶良は、まだ「七草」という意味の磁力に縛られています。
しかしたとえば実際映画もつくっていた寺山修司の俳句は、関わりがありそうでほとんど関わりがない、つまりどうとでもとれる名詞が並んでいます。しかしたとえば父や桜や暗黒や自涜=オナニーなどめいめいが喚起力の強いことばを並べることによって読み手がそこに読み手自身の個人史的な記号内容を投影しつつ、めいめいの意味空間を形成していくはずです。しかし基本的にはそれらは主体的に行うというよりは、スクリーン的に、投影的におこなうのではないかとおもうのです。
そんなふうに名詞をべたべた並べ、投げつけることによって、読み手にも映画修辞的に読解させるちからがこれらのうたにはあるのではないかと思います。たとえば、つぎのような句にも。
紀伊國屋書店本店前の鬱 矢島玖美子
錐・蠍・旱・雁・掏摸・檻・囮・森・橇・二人・鎖・百合・塵 塚本邦雄
萩(はぎ)の花 尾花(をばな) 葛花(くずばな) 瞿麦(なでしこ)の花 女郎花(をみなへし) また 藤袴(ふぢばかま) 朝貌(あさがほ)の花 山上憶良
銀座銀河銀河銀座東京廃墟 三橋敏雄
法医学・桜・暗黒・父・自涜 寺山修司
【ワーナー・マイカル・シネマズにゆく山上憶良】
うえにあげた歌や句は、ほとんどすべてが名詞から成り立っています。斎藤茂吉のうたは飛行機のうえから詠んだ歌だったので、視線がうつろうように場所が並列化されてあるんですが、こういった名詞だけの短詩型とはいったいなんなのかということについてときどきかんがえます。
ひとつとっかかりとしてかんがえてみたいのは、名詞だけでつくられた短詩型には、助詞=助辞がない点です。助詞がないということはどういうことかというと、接着剤がないようなもので、その歌のなかにおける構造や関係性への志向が稀薄だということになります。「が」や「は」「を」などの助詞は、名詞と名詞の間の関係性やポジションをあらわすのですが、名詞がべたべた並べられた短詩型においては、それらを構造化する手だてがありません。あえていえば、構造化するのは流れ=ベクトルということになります。
流れ=ベクトルをつくるのは、それを読んでいく読み手でもあります。だから、助詞もなく、名詞が並んでいる短詩型の構造や関係性は読み手にゆだねられているのではないかとおもうんです。つまり、読み手自身が助詞となり、〈読む〉という行為そのものが関係性や構造化を駆動する装置そのものになります。
もうひとつ少し別の観方もしてみたいと思います。斎藤茂吉が名詞をべたべた並べるうたをつくったのが、飛行機に乗っていたときというのが示唆的だと思うんです。つまり、移動している、というよりも、移動させられている、わけです。わたしが主体としてみている、のではなく、わたしはむしろそのとき客体として〈風景〉をうつしていくスクリーンのようなメディアとして働くことになります。
この飛行機と似たような近代装置が、映画です。映画は、時間芸術といわれますが、それは映画がたとえ起きていても、眠っていても、始まって・終わる点にあります。小説は、みずからが主体となって読まなければ終わりません。しかし、映画はちがいます。映画は始まってしまえば、たとえ眼をつむっていようが、終わります。映画の物語構造は、なによりも時間が助詞の役割をし、構造化しているのではないかとわたしはおもったりします(たとえ無意味なショットとショットをつなぐわせても意味が起爆するというモンタージュ理論はよくそのことをあらわしているように思います)。そしてこの進むことによって、ベクトルによって構造化していく流れは、これら名詞を並べた短詩型によく似ています。つまりこれらは映画的感性によるうたではないかとおもうのです。だからこそ、映画をみたことがない山上憶良は、まだ「七草」という意味の磁力に縛られています。
しかしたとえば実際映画もつくっていた寺山修司の俳句は、関わりがありそうでほとんど関わりがない、つまりどうとでもとれる名詞が並んでいます。しかしたとえば父や桜や暗黒や自涜=オナニーなどめいめいが喚起力の強いことばを並べることによって読み手がそこに読み手自身の個人史的な記号内容を投影しつつ、めいめいの意味空間を形成していくはずです。しかし基本的にはそれらは主体的に行うというよりは、スクリーン的に、投影的におこなうのではないかとおもうのです。
そんなふうに名詞をべたべた並べ、投げつけることによって、読み手にも映画修辞的に読解させるちからがこれらのうたにはあるのではないかと思います。たとえば、つぎのような句にも。
紀伊國屋書店本店前の鬱 矢島玖美子
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